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心の手当て


 人は死に向かって年を取る、というのは本当だろうけど、死の前に、ある領域がある。その一つは病である。病と関係がない人間の死は不慮の死だけで、それ以外の死は、病のプロセスを通る。
 人間は簡単に死ねない。だから自殺もあるのだが、死の前の領域とは、死ぬまで、病でさんざん苦しむようになっている。治る病であろうが、不治の病であろうが、この病という儀式を通って人間は初めて死に至る。
 私は一ヶ月に一度病院へいく。そこでがんを抑制するホルモン注射をする。私がかかっている前立腺がんは治らないが、死に至る病ではなさそうだ。私は死ぬときはまったく別な病気のプロセスを通るかもしれないのだ。
 月に一度通院しているうちに、病にたいする認識が変わった。死に至る病であろうが、死に至らぬ不治の病であろうが、病は病人たちを結びつけるコミュニケーションの役を果たしているということだ。
 診察を待つ時間、薬をもらうまでの時間、老人たちはそれぞれ自分の病歴についてしゃべる。一時、病院は時間をもてあました老人の社交場と皮肉った批評家がいたが、私が観察したところでは、互いに病歴をしゃべることで交流ができ、表情もいきいきとよみがえってくる。
 たんに病院は病む老人たちの社交場ではない。病をとおして、老人たちは初めて自己を語る喜びを知ったのである。
 彼らを遠くから見ながら、私もまた彼らと何も変わらない老人の一人であるのだが、晩年のイエスを思い出した。
 湖の辺の病む群衆の中へ這入っていき、イエスはこういう。

 重荷を負うているすべての人よ
 来なさいわたしのもとに
 休ませてあげるそのあなたを

 すごい言葉だ。イエスが最後にたどりついた救いは、病む人の悩みを真剣に優しく聴いてやる心の手当てであった。
(平成12年7月 北海道新聞道南版 立待岬)



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