随筆あれこれ

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かわたれどき


 三島由紀夫の『太陽と鉄』を意識してのことだが、この頃、昼間のエッセイでも十分でなく、さりとて夜の小説でもすべてを包みこむことができない、そういうテエマを私もかかえ込んでおり、そういうものを描くには、その両方がかさなり合う、かわたれどき、でないとだめだろうかと思い、『流砂の手記』の2を、かわたれどき、としたのである。それは私を描くのに父の側から想像してみようと思ったからである。父とはいえ他者であり、私は彼の心のなかのことは知らぬ。死んで十数年も経ったいまはなおのことである。思うに私は殆ど父と言葉を交わしたことはない。
 ここに古い一枚の写真がある。小さな写真であるが、私にとって貴重なもので、写っているのは父と私だ。昔祖母から聞いたが、日魯漁業に勤めていた父が、カムチャッカから帰ってまもなく、私を連れて街へ出たという。私は二歳、父は二十七歳。すでに私の右膝は結核菌で冒されていた。たまたまその日も、遊びに連れて出かけた途中で私は膝の疼きを訴えた。その写真には、父がしゃがみながら立っている私を押えて写っているが、私がべそをかいているのは、そのせいだった。母は生まれたばかりの弟がいて家にいた。父はいつも四月の中頃カムチャッカに行き、九月のはじめに帰ってきた。気候の一番よい時期に日本にいなかった。久しぶりに帰ってきたので、いつも家にばかり閉じこもっている息子を連れて街を見て歩こうと思ったんだろうが、途中でだめになった。連れて帰るなり私を寝かせたが、私はかつてないほど結核菌が骨を蝕む痛みに苦しみ、朝方まで泣き続けていたらしかった。父も母も、そしてまた祖父も祖母も、その夜は一睡もしないでこの初めての異常な私の泣き叫ぶ声に何の対処もできずにいたようだった。
 足の痛みはこのときで終ったわけではない。七歳のとき右足を大腿部から切断したが、二歳から右足切断までの六年間、右膝の病む痛さに私は苦しめられていた。すでに両親は私にはどんな未来もないことを担当医からそれとなく告げられていた。昭和の初めの、それも地方の医者の力では、私の右膝の治療には限界があるらしかった。最後の手段として右足切断を担当医は考えていたようだが、結核菌が右膝のみにとどまっているとは限らない。内臓に転移している心配もあった。ともあれ結核とは死に至る病である。
 しゃがんだ父に支えられながら、べそをかいているセエラー服の二歳の私の写真を見る度に、二十七歳の父はどんな気持でいただろうと、この頃とみに思うが、それは私も孫がいる歳になったからだろう。生まれたときはどこにも欠陥のない丈夫な赤ん坊であっただけに、成長するにつれて死に向かって衰えてく息子を見て父は、こうまで自分たち夫婦が苦しまねばならないのはいかなる呪いのせいだろうと思ったに違いあるまい。萩原朔太郎に、夜泣きする児に罪の深さを知るという意味の詩があったと思うが、足の痛みに泣く息子の場合はそんな悠長な話ではない。もっと切羽詰ったことで、できることなら幼児の首を締めて早く楽にしてあげたいと父は思ったかもしれない。朔太郎の詩の世界の方が底は深いが、父の泣く幼児を前にした世界は、借金取りが来て一日の猶予もない、そんなぎりぎりの苦悩のようであった。
 大江健三郎に『個人的な体験』という小説がある。脳に障害を持つ子の父親の苦悩を書いたものだが、そのなかに出てくる主人公 鳥(バード)と父の姿がときどきかさなることがある。脳に欠陥がある子どもの手術をするべきかどうか迷っていたとき主人公 鳥 はブレイクの時に出遭う。『地獄の格言』のなかの一つで、土居光知の訳ではこうなっている。
「実行しない願望を胸にいだいているよりも、揺藍の中にある幼児を殺すがよい」。私は原文に照らしていないが、この訳からいうと、ブレイクがここでいっているのは、願望を抱いて実行しないのはよくないということだ、それは揺藍の中で幼児を殺すより、もっとよくないことだということである。それを 鳥 は読み違いする。先へいって実行できない願望を抱かせるくらいなら、揺藍の中で幼児を殺した方がいい、というふうにである。これは脳障害の自分の息子を、その詩に重ねすぎた結果の誤訳である。
 私の父も結核菌が新しい骨を蝕むたびに泣き叫ぶ幼児を前にして、もし仮にブレイクの詩を辞書をたよりに読んだなら、どっちみちこの児に先がない、仮に先があったにしても、折れ曲がって使えない右足がついているのだから、大人になって欲望が目覚めても、何ひとつ実現できない、恋もかなわぬし、結婚もだめだろう、それは可哀相なことだ、それくらいなら揺藍の中で殺した方がいいだろうと、ブレイクの意図とまったくかけはなれた方向でその詩を読んだだろう。
 父は七十五歳で亡くなった。肺癌で、死ぬ数日前はかなり苦しんだ。ずっと両親と一緒に暮らしながら殆ど言葉を交わさないのは、毎日一緒にいるということの他に、私が障害者だということも関係があるだろう。父にすれば言葉の掛けようがないのかもしれない。体の具合はどうかと訊ねにくいだろう。担当医から、先行きがないとか、右足切断の後は二十歳まで生きられれば上々だと思ってくださいとかいわれたらしいが、その息子が五十歳まで生きているのを見て、死の間際の父は、これで自分の負い目もふっきれたと思ったようである。しかし、すべては推測だから、本当のところ父の心のなかは判らない。  ただ、子どもの頃、私はある一つの言葉にずっと支配されていた。それは、いつ、誰が、私に言ったのか、言われたときは相手も場所も覚えていたと思うが、ある人が、私に、こういったのである。
 「お前はなんて親不孝な子どもだろう」
 こういうことを面と向かって私にいうのだから両親の苦労をつぶさに見ていた人だろう。そうなると、父方母方の祖父母だろうか。母は早くに実母を亡くし、継母が来ると、さっさと嫁に出された。それだけに母の実父は娘が不具の児をかかえているのを見て不憫がり、右足切断した後、少しずつ回復していく私の様子を見て、お前もようやく元気になったようだが、ここまでくるのに、お母さんはどんなに苦労したかわからない、それを忘れちゃ駄目だよ、といったかもしれない。私も聴いたような気がする。この祖父は私の医療費と高価な義足の費用のすべてを持ってくれた人だった。当時はすべては自費で健康保険も福祉制度もなかった。また父方の祖母も、息子を哀れに思い、孫の私に、お前は右足を切って一本足でこれから大変だろうけど、ここまでくる間、どんなにお前のお父さんは苦労したかわからない、忘れちゃ駄目だよ、と義足を操って歩けるようになった姿を見て、そういったような気がする。
 しかし、この二人の祖父、祖母の言葉と、誰がいったか判らない、「お前はなんて親不孝な子どもだろう」は似ているようで、じっさいはまったく違う意味内容の言葉であった。
 私の両親は、手のほどこしようのない結核の痛みで泣き叫ぶ息子を前に、なんて親不孝な息子だろうと、思う筈がない。こうした酷い運命にみまわれたことを息子と一緒に苦悩し、嘆いていただけだろう。してみれば、この言葉、「お前はなんて親不孝な子どもだろう」は、一見私の両親の立場に立って両親の苦労に報いているようにきこえるが、そのじつそうでない。子どもの頃から私がこの言葉に引っかかったのは、私の悲しみを簡単に片付けているからである。それも両親の苦労を評価するふりをしてである。
 面と向かって言ったのに私にその人の顔の記憶がないのは、私が幼い為だけだろうか。これは個人の言葉ではなさそうだ。個人ではなく社会だろう。あるいは個人であっても世間を代表していったのだろう。似たようなことを私はテレビのなかで出会った。湾岸戦争のときの、国際政治学者とか、軍事評論家とか、政治家の発言である。彼らはイラクの攻撃に、「イスラエルはいついつ報復する」とか、「いまのところ、イスラエルが何もしないのは、アメリカが抑えているからだ」とか、いとも簡単にいった。なぜ彼らはその国の存亡にかかわることを簡単にいえるのか。それは彼らはそこに住んでいないからだ。外側から見ているからだ。
 1985年の春、チェコ出身の作家ミラン・クンデラは、彼の文学作品に授与された賞のお礼に、イスラエルのエルサレムで、『小説とヨオロッパ』という講演をした。このなかで彼は、ヨオロッパの精神は死につつあるが、エルサレムへくると、ヨオロッパの精神に出遭うといい、そのヨオロッパの精神とは小説の精神であると付け加えている。ヨオロッパは政治で東西に分断された。今度は経済で統一されようとしている。どちらもそこには個人がはずされている。ヨオロッパとは個人の発見であった筈だ。個人とは何か。「人間が個人となったのはまさに誰もが同じに考えるという真実の確信と他者の満場一致の同意とを失うことによってで」それは小説の想像世界ではじめて可能であって、それがヨオロッパの精神である。そしてそのことをクンデラは、トルストイの『アンナ・カレエニナ』を例に取って話したのである。
 クンデラが授与された賞は、もっともインタアナショナルな文学に贈られるもので、それだけ見てもイスラエルには、国家を超えたヨオロッパ精神というものが感じられる。そしてクンデラも「ユダヤ人たちがヨオロッパによって悲劇的に欺かれたあともなお、このヨオロッパ的コスモポリタニズムに忠実であるならば」彼の眼にはイスラエルがヨオロッパの真の中心、肉体を超えた不思議な心臓のように見えるというのである。
 こういうイスラエルの苦悩や優れた内実が何も判っていないテレビのなかの国際政治学者や評論家や政治家たちの発言は、支配のための道具としての政治的言葉にすぎないのである。
 それと同じに、子どもの頃から引っかかった言葉「お前はなんて親不孝な子どもだろう」も、私や父の内実を何も知りもしない外から見た傍観者の無責任な言葉で、一見父や母におもねているようでそのじつ、障害者の親子が社会に出てこないように封じ込めいる政治的発言である。
 まだ父がいくらか小康を保っていた食卓でこういったことがあった。
 「世間はいかにも不具の息子を持った私を慰めるように、いろいろ言ってくれたが、いま思うと、あれはじつに巧妙な、そしてまた手の込んだ排除の姿だったんだろうね」
 私は父の骨を拾いながら、その数ヶ月前の食卓での父の言葉を思い出した。そのとき父は、それはどういうことか具体的はいわなかったが、父にもまた私と同じように引っかかる言葉があったのだろう。死の間近、その死の恐怖を忘れるために、父は、息子が助かるかどうかの瀬戸際の頃とか、戦争中ということもあったが義足故に中学校に這入れないことが判った息子が庭の石の上で「ご真影」を壊していた姿とかを思い出していたのかもしれなかった。
 (『流砂の手記』より 1996年10月)


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