随筆あれこれ

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幻の音


 「あ、音がきこえる」
 「木のはじける音?……」
 「いや違う。鋸が木を切る音にちかいんだ……」
 妻が木がはじける音、と言ったのにはそれなりの理由がある。私の家は木造でそれもかなり古い。それで時々柱がはじけるように鳴る。
 「鋸が木を切る音……又変な音がきこえるのね。空耳じゃないの」
 もっとも妻に私の耳にきこえてくる音の意味はわかるまい。これは謂わば一種の幼児体験かもしれないからである。おそらくこの鋸が木を切る音は、子供の頃の私の病気と関係があるかもしれない。 
 私は二歳の時右足に結核性関節炎をわずらい、九歳の時大腿部から切断した。骨はもちろん鋸で切るわけである。その間私は全身に麻酔をかけられていたから意識はなかった。しかし私の頭脳はすべて眠っていたわけではなく、どこかさめている部分もあり、それが骨を切る時の鋸の音を記憶していたかもしれない。そして三十数年たって私はそれを思い出し、鋸が木を切る音に似た音をきいているのかもわからない。
 しかしこの推理は、私のロマン主義的性癖を少しも満足させない。鋸が木を切る音に似ている音がきこえるというのは本当であり、それは私の幼児体験によるものらしいが、私はその音を、もう少し神秘的なものと考えたい。それは謎につつまれた音で、その音の解明はまことにむずかしく、永遠に解けないものー若し解けたとすれば、その時は私に何か悲劇的なことが持ち上がっているとしたい。
 私と一字しか違わないのだが、一字がじつにかけ離れた違いをみせている劇作家がいる。木下順二である。彼の脚本に『機の音』というのがある。中学校の教科書にも載っているので知っている人も多いだろう。
 さてこの『機の音』の中に海賊の頭目が出てくる。生まれながらの海賊だと豪語している男である。ところがこの頭目の耳に、いつでもある音がきこえてくる。彼はその音を追究する。それは波が舟べりにあたる音とも違う。それなら一体その音は何の音なんだろう。最後にその音が分る。それは機の音である。彼は最初から海賊であったのではない。幼少の頃、海賊にさらわれたのである。その前までは、ある村のごく普通の家庭の子供で母の機を織る音をきいて育った。彼があくまでも追究したのは謂わゆる幼児体験である。だがその幼児体験がわかる時は彼の死を意味した。
 この話はどこか『白鯨』に似ている。白い鯨を追って世界中の海をさまよう男……この男も、『機の音』に出てくる頭目も、人生の幻を追って亡びていった男たちと言ってよいだろう。
 ……それなら最近私が非常に気にしているある音とは何だろう。「あ、音がきこえる」と私はしばしば思う。
 この音も、私の幼児体験に根ざしていることだけは間違いない。一体何の音なのだろう。ロマン主義的私の性癖はさまざまな仮説をたてるが、今のところ幻の音ははっきりした答を出していない。
(月刊はこだて 1974年5月 No.141)


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