随筆あれこれ

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八月十五日


 この日が来ても私は余り関心がなかった。マスコミの騒ぎ方と、私の終戦体験との間に、かなりのずれがあるからで、終戦記念の年中行事を私はいつも冷やかな目で見てきた。
 昭和二十年、私は十六歳で、終戦の玉音を友人の家で聴いた。その日、私は正午に、大事な放送があることを何も知らずに、友人の家に居た。昼近くになると友人が下へ、ラジオを聴きに行こうと言った。怪訝な顔をすると、「何んだ知らんのか。今日正午、天皇陛下のお言葉があるんだ」
 戦前の天皇は終戦の人間天皇と全然違う。ルイ十四世は、朕は国家なり、と言ったが、その頃の天皇も国家であり、絶対の権力を持って国民の上に君臨し、個人の自由なぞというものはなかった。それに天皇は神であり、畏れおうい存在で、誰一人として陛下の声をきいたことがない。その天皇が自らマイクに向って、国民にお言葉をくださるのだから、これはただごとではない。この時、私の頭をかすめたものは、よく街でみかけた、玉砕とか本土決戦とかいうポスターの言葉で、いよいよその時が来たと私は思った。
 下へ行くと、既に彼の両親は、ラジオの前にきちんと正座し、私たちを背後に坐るように命じた。
 正午きっかり、細い妙な声が流れた。音波の具合が悪く、何を言っているのか判らなかったが、はじめて聴く天皇のお声に、私は失望した。そこには権力者に相応しい重厚な響きは何もない。又余り好感の持てぬ甲高い細い軽々しい音声である。若しこれが本当に天皇のお声なら、とてもこの声の持主は、国民に向って、一億玉砕や、本土決戦が呼びかけるられる方とは思えなかった。
 ラジオからは、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」という言葉だけが聴き取れたが、何を耐え、何を忍ぶのか、肝心なところへくると雑音に邪魔され、全然ききとれず、曖昧のうちに陛下の放送が終った。
 「小父さん、何て言ったんですか」
 彼の父も私同様正確に内容を把握していなかった。
 「何て言ったのかな。戦争が終ったのかもしれない」
 「あなた、違いますよ。本土決戦を呼びかけたんですよ」
 これは彼の母の言葉だが、本土決戦を呼びかけたような言いまわしは、何もなかった。最初から彼の母は先入見を持って聴いていたから、結局、そのよく判らない天皇の放送に、最初の偏見を聴いてしまったのである。
 一か月前、函館に空襲があり、青函連絡船が殆ど沈められ、一億玉砕が合言葉になっていた。その時期の天皇のお言葉だけに、本土決戦を呼びかけ、共に死のうという覚悟をうながした放送と取ってもむりからぬことである。
 これはずっと後で判ったことだが、あの八月十五日の敗戦の玉音を、勝利の宣言と聴き違いし、喜んだ人もかなりいたということだ。こうした珍現象は何のせいだろう。
 再び天皇の声にもどるが、私はその日一日ずっと陛下の声の音質にこだわった。あの声は、とても優しい、人の好さそうな、慈悲深い人柄の声であっても、決して国民に一億玉砕なぞ呼びかけられるお声ではない。そして又、神国日本というふうに、全世界で、日本だけが神の国であるという訳の判らぬ自惚れを堂々と言える声でもなかった。
 小学生の頃、担任の先生から、考えれば考える程馬鹿馬鹿しい話を私は聴いた。しかしその先生は馬鹿げた話として吾々に喋ったのではない。崇高な美談として話して聴かせたのだ。
 昔、学校の門をはいると、御堂があり、そこに御真影が安鎮せられ、生徒は皆深々とそこへ最敬礼してから校舎へ這入ることになっていた。最敬礼を忘れると叱られるか、時には叩かれたものだ。たまたまある小学校が火事に遭い、御真影を焼いてしまい、学校長は責任を痛感して自殺したという話である。
 これがなんで美談なのか私には判らなかった。写真一枚と人間の命とどちらが尊いか。写真ならいくらでも代りがあるだろう。又新しい御真影を買ってくればいい訳で、こんな簡単なことが、どうしてその校長には判らなかったのか、私はふしぎでならなかった。
 休み時間、さっそく皆と話し合ったが、皆も私と同様、校長の自殺が何故美談なのか判らぬといった。思うに、あの頃は小学生だけが冷静で、大人は皆狂っていたのである。
 天皇の玉音に接して、思いだした事はこの時の話で、かりに、この話がそっくりそのまま天皇のお耳にとどいていたなら、いったい陛下はどうなさっただろう。あの力のない細い慈悲深いお声から判断して、その校長がとった行動を喜ぶとは思えない。そういう行動が美談と騒がれる暴政に、痛恨のお涙を浮かべたに違いなく、突然私はこぶしを握った陛下の手が怒りで震えるのを見たような気がしたのである。これは嘘でも誇張でもない。玉音がまさに私に天皇も又被害者であることを教えたのだ。すると諸々の謎が解けてきた。天皇の名で出されていた政府からの命令は、すべて天皇と関係がないのである。してみれば永らく私も天皇をお恨みしていたけれど、それはおかど違いというものだった。
 昭和十七年三月、私は小学校を卒業し、中学の試験を受けた。結果は不合格である。しかしそれは成績とは関係ない。生まれて間もなく私は右膝に結核をわずらい、小学校一年の秋、右脚を大腿部から切断した。いわゆる不具者で、当時の国家体制からみれば、役立たない少年である。そういう少年に国費を使って中等教育を受けさせるのは国費のムダで、国家体制が私を中学校から締め出したのである。そして当時の中学校の校長が抗議しにいった十三歳の少年である私に、はっきりこう言った。
 「君は戦争にいかれぬ自分を恥じなければならぬ」
 戦後彼は戦犯として教職から永久追放された。当然である。彼も当時の狂える日本人の一人で、こういう校長を跋扈させている天皇を私はお恨みしていたのだった。けれどそれはおかど違いで、天皇の背後に、一度も顔を出さぬ権力者がいた。昭和二十年八月十五日、私は陛下のお声に接して、誰におしえられるともなく、日本の暴政のからくりを知ったのである。
(月刊はこだて「街」 1978年9月号No.193)


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