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「史記」について


 血気盛んなとき司馬遷に出会っていたら私の運命も変っていたかもしれぬ。私の青春は歴史とではなく文学とともにはじまった。なかんずく二十代の私をとらえた文学は、人間を救う文学ではなく、人間を断崖絶壁までつれていき、深淵をのぞかせる文学であった。一流の文学作品にはこうした虚無の毒がある。私は文学青年という言葉をもっとも嫌うが、この文学青年が辿る道というのは、だいたい似ていて、人生よりも先に芸術がはじまる。
芸術をとおして人生を知るのだが、まだどんな人生もはじまらないうちからその芸術は現実のすべてがつまらないことを教える。しかも一度、こうして断崖絶壁にたたされ、人生がつまらないと教えられると、なかなかその認識からぬききれない。一時私もそうで、その認識からなんとかぬけ出す途はないかとたまたま迷っていたとき、私は司馬遷を知った。
 季陵をかばったばかりに、司馬遷は武帝の怒りにふれ、死刑を宣告された。当時は金さえあれば死刑はまぬがれたがしかし貧乏な歴史の記録者である司馬遷には金なぞあろうはずはなく、結局は宮刑を願い出た。宮刑とは死刑につぐ刑罰で男でなくなるいまわしい刑である。性格まで変るというかん官にまでなっても司馬遷は生きのびようとした。武士なら当然いさぎよく死ぬところを、司馬遷は生き恥さした。理由は「史記」を書き上げるためである。「史記」は男でなくなった司馬遷の怨みつらみから生れた。
 もっとも古今東西を問わず名著というものは、怨みや苦しみから生れるが、この生殖器をとられて、怒りながら書いたという「史記」とはどういう本だろうと思って読むと、これがまた素晴らしい本なのである。「史記」の「斎太公世家」に司馬遷の歴史にたいする態度がある。斎の大臣が君主を殺したので、斎の歴史家は「大臣は君主を殺した」と書いた。すると大臣は「けしからぬ奴」と歴史家を殺した。今度はその歴史家の弟が、また同じことを記録した。大臣は又この弟を殺した。その殺された弟の弟がまた「大臣は君主を殺した」と同じことを記録した。三度目にはさすがの大臣も記録者を殺すわけにはいかなかった。三人の兄弟が次々と死をもって記録を守った話をわざわざ司馬遷がとりあげているというのは、記録だけが世界を変えるということを知っていたからだろう。多分司馬遷もかん官として武帝のそばにつかえながら斎の太史のように、死る以って記録すべきものは記録し、こうして「史記」をつづっていたと思われる。
 私はさきに「史記」は司馬遷の怨みつらみから生れたと書いたが、たんにそれは個人的な怨みつらみの産物ではない。怨みつらみだけでは一流の作品はできあがらない。司馬遷は生殖器をとられて発憤したことは本当だが、また自分のいまわしい運命を忘れるために「史記」に没頭したのも事実だが、しかし彼はなによりも「歴史」の偉大さを信じていた。いかなる歴史も歴史家が筆をとらなければ存在しない。何を事実として記録し、何を捨てるべきか司馬遷は知っていた。
 私は中国文学の研究家でもないし、歴史家でもないから「史記」の読み方は、あくまでも自分勝手だ。ひところ「史記」にこったが、いまは遠ざかっている。それでも「史記」はいつでも傍においている。何かにつまづいたり、気がめいったりすると私はそれをひらく。どこから読んでも「史記」は私をはげましてくれるからである。
(月刊はこだて 1969年9月 No.85)


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