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写真


 三十前の若い父と二、三歳の私が写っている写真がある。昭和六年(1931年)ごろのもので、父は中折れ帽をかぶり、まるい眼鏡をかけて、しゃがみながら、べそをかいているセーラー服の私を支えている。函館公園で撮ったものと思える。秋の影が長い。
 カメラは普及してないから公園にはプロの写真屋さんが何人かいた。母が写っていないのは、弟が生まれたばかりで外出できなかったのだろう。父は日魯の社員で、カムチャッカから帰ってきた最初の日曜日、私を連れて公園へいったものと思われる。そのときの記念写真だろうが、私がべそをかいているのは右ひざの結核菌があばれだして、うずきだしたためだろう。
 三島由紀夫の死後、父・梓の息子を思い出して書いた箇所に、幼児の息子を連れて、新宿駅へ行ったときの描写がある。梓は迫り来る汽車に、「ホレ、汽車だよ」と驚かすつもりで、抱きかかえたが、息子は泣きだしもせず、喜びもせず、じっと能面のような顔をしていた。
 それを梓は、息子は幼児のころから感情が希薄だと書いている。これは父である故に、息子をよく知らないということもしれぬ。三島は狂おしい魂の持ち主の祖母に育てられ、祖母と母のとのあつれきのなかでいつも感情を見せることができなかった。彼は子どものころから大人に気を遣って生きていた。
 私は幼いころから病む足のために、父にも母にも甘えることができなかった。久しぶりに楽しく父とすごしていても、足が病むとべそをかくしかなく、二人の仲は足の痛みで邪魔された。私は白い帽子をかぶっている。外国のハイカラな帽子で、父に買ってもらって喜んだと思うが、その喜びもおしまいになった。
 もう一枚忘れられない写真がある。右足を大腿部から切断する数日前に撮ったもので、籐椅子に私はカスリの着物に羽織姿で写っている。髪は七三にわけて大人ぽい。子どもらしくない。まだ七歳なのに、自分の死を知っている顔である。
 あとで分かったことだが、母はこの悟りきった息子の顔に、手術とともに死んでしまうのではないかと思ったそうだ。そういう顔が写っていて、いまも見るたびに、妙なとまどいを誘う。しかし、私は死ななかった。
(立待岬・北海道新聞道南版 平成12年3月)


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