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犬が欲しい

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犬が欲しい (1) 

 とつぜん、ああ、犬が欲しい、犬が飼いたい、と夫が叫んだ。妻はびっくりして、朝食の支度の手を止めて夫を見た。
「犬を飼ってどうするの」
「散歩するよ」
「散歩のために犬を飼うの?」
妻の問いに答えず、夫が雪がなくなった小さな庭をガラス戸ごしに眺めた。庭には雀がいた。妻の撒いたパン屑をうれしそうについばんでいる。彼には雀たちの囀りが聴こえない。それが判ったのは、妻から雀が鳴いているわ、といわれたときからだ。もうだいぶまえから、小鳥の鳴くカン高い音に耳の反応が鈍っていた 。若いとき船の機関室にいたせいだろう。
 垣根をこえて猫が姿を見せた。餌をついばんでいる雀を狙っている。肥ったからだをゆすり、ふてぶてしい顔つきの猫を、彼は腹立たしく思った。
「おい、また猫がきたよ」
「パチンコで撃つのだけはやめてください」と妻はいった。手製のパチンコで撃とうとしたことがあったのだ。夫はガラス戸を開けて、猫を威嚇した。
 彼は石田武、五十七歳で、水上警察勤務もあと三年で退職である。このごろは船に乗るより陸(おか)での仕事が多くなった。
 釣りに出掛けるにはまだ寒い。趣味の川釣りの季節は先のことだ。
 朝食をすませると、毎週火曜日、絵画教室で画を教えている妻は出掛ける用意をはじめた。もともと妻の朝子は中学校の美術教師だったが、転勤の多い武と結婚したので、教師をやめた。子どもが生まれると、子育てのために完全に好きな画を描かなくなり、一人息子が大学を出て、夫もようやくこの港町に落ちつくようになってから再び画を描きだし、昔の同僚の世話で絵画教室で大人の生徒をとっていた。武は、妻が永いこと不服ひとついわず画も描かずに、自分や息子のために家庭をきりもりしてきたことを知っていたから、いつか、妻に思うぞんぶん画を描かせてやりたいと思っていた。しかし、そのときが来て、妻が画を描きだすと、画にかけた妻に夫はとまどった。妻は公募展でつぎつぎ賞をとり、このごろは聡明な自信に満ちた顔になった。
 朝子の画は風景が主だが、刻々と変わる光のなかの一瞬の表情に、対象のすべてを自分なりに再構成し、「作家のこころが見える風景画」と評価されていた。
 夫婦ふたりでは大きすぎる食卓に、朝子は皿を並べた。ベーコンを添えた目玉焼きがのっている。サラダの取り皿がある。バスケットには焼きたてのトーストが三枚はいっており、一枚は朝子が、二枚は武が食べる。牛乳とグレイプフルーツジュースのはいったグラスを置くと、ふたつのカップに珈琲を注いで妻は夫を呼んだ。焼きたてのまだ熱いトーストに、たっぷりのバターと苺ジャムをつけて食べるのが朝子は好きだった。齧ったときのパンの歯ごたえと、バターとジャムの混じり合った美味が口の中にひろがるのを楽しんだ。これだけで朝の仕合せがやってきた。
 見ているようで何もみていないものだと武は思った。妻の、朝食のときの満ちたりた顔に気づいたのもこのごろだ。少しずつ、知らなかった妻のしぐさに気づくと、理解というのは距離を縮めるのではない。そこに一個の冒しがたい妻の存在を見ることでもあるのだ。
 からになった夫の皿にサラダをよそいながら朝子は、おひるはチャーハンを作って食べてください、材料は揃えてありますから。でも、食べすぎないようにね、と太りすぎを気づかった。明けの番と妻の絵画教室のある日が重なることがあった。
 武は煙草をやめてから食がすすみ、体重も胴回りもかなり増えつづけ、職場の医師からも注意を受けている。
 夫は、二杯目の珈琲を飲みながら、新聞を読んでいた。電話が鳴った。このごろ連絡をくれない息子を朝子は叱っているようだった。武は息子がどうしているか心配で電話したくても、自分からできないたちで、ときどき妻に元気かどうか掛けてみろといっていた。
「おとうさん、あなたのこと心配してるのよ。たまに声を聞かせてあげなさい」
 出張からゆうべ遅く帰り、息子は今日は休みらしいと、朝子は夫に受話器を渡した。しかし、二、三言葉を交わしただけで武は電話を切った。


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