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随筆あれこれ

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ドナルド・キーンさん


 六月二十四日夜おそく、安東君から私のところへ、明日、キーンさんが来るけど二人で函館を案内しないか、という電話があった。私は承知したが、考えてみると、私は英語に堪能でない。これは困ったことになったと思った。読む方なら少しは出来るけど、あの英会話というやつは、まるで苦手で、やさしいことさえよく聴けないし、喋れない。引き受けたはいいが、どうしようと、その日夜おそくまで考えていたが、私はキーンさんが日本語に堪能な方だということをすっかり忘れていた。それを思い出した時、おかしくなって一人で笑っていた。
 翌日安東君が旅館にキーンさんを迎えにいき、上野という喫茶店で落合った。私はゆうべのうちに教育長の三ツ谷さんに車をたのんでおいた。教育長はこころよく車を貸してくれた。
 キーンさんの来た目的は、日航の海外雑誌に函館を紹介するためである。これは函館のためにもなると思って、引き受けたのだが、その案内のあとで、私はキーンさんと三島由紀夫の話をしようと思っていた。
 約束の時間に、安東君とキーンさんとが上野に現れた。キーンさんは写真でみているので、お顔は知っていたが、じっさいお会いしたほうが、写真よりもずっと素敵である。背はアメリカ人にしては小柄の方だろう。私くらいか、私より少し小さいくらいである。お顔はアメリカの女優、ベディ・デビスを思い出させた。ベディ・デビスの弟さんといってもとおるくらい似ていた。ややしもぶくれで、顔の線が柔らかい。それに眼が澄んでいて、とても綺麗だ。又笑顔も素晴しい。
 驚いたのは日本語の流暢さである。語尾がはっきりしており、又じつに叮嚀な日本語で、私は自分の粗雑な日本語が恥ずかしかった。お話好きで、次々自分の思ったことを喋っているキーンさんをみていると、とても上質な日本語を話す上質な日本人と会っているような気持で快かった。
 キーンさんは「青い目の太郎冠者」といわれているようだが、私はしゅうし上質な日本語を話す日本人といるような気持で、キーンさんが外国人であるということをすっかり忘れていた。
 最初、三人は教育長の車で、五稜郭公園へいった。印象に残ったのは、公園の片隅にある草花を見て、クロッカスがありますね、という言葉だった。キーンさんはどんな小さな事も見逃さない繊細で注意深い魂の持主だった。私はふとプルーストを思い出した。本によるとプルーストも道端の花に足をとめたデリケートな人である。キーンさんにもそういうところがあるようだった。キーンさんは詩人かもしれない。あるいは詩の心を持った日本文学研究家に違いない。今でも私の耳に「クロッカスがありますね」というキーンさんの声がきこえてきそうである。
 大沼公園にいく途中、参議院議員候補のポスターが沿道にずらりと並んでいた。その中に、山口淑子の顔写真があった。キーンさんは笑いながら、私のお友達です、でもあの顔は若い時の顔かもしれませんね、と、茶目っ気ぶりを発揮した。私もおかしくなって、つい笑ってしまったが、この時も私は、なんて素敵な笑顔だろうと思って、キーンさんのお顔を眺めていた。暖味のある優しい笑顔だった。キーンさんは笑顔でだいぶ得をしていると私は思った。
 五稜郭公園も大沼公園もキーンさんは気にいったようである。五稜郭公園には「哀愁がある」といったのは桑原武夫さんだが、私はキーンさんにそのことをいうと、何度もうなずいておられた。私もふと「哀愁」と「榎本武揚」とはどこかでつながっているような気がした。  大沼公園の帰り道、途中のドライブインで昼食をとった。キーンさんのおごりであった。私も安東君もキーンさんと同じものを取った。シャケ定食である。キーンさんは割箸を巧みに使った。その時私は胸があつくなった。
 キーンさんはたんなる日本文学研究家ではなかった。キーンさんは日本人になろうとして、日本食を食べ、箸を使い、日本の作法を、苦労しながら身につけた人だった。大変な努力だったろう。こうまでして、日本人になろうと努力してきたのも、日本を正確に理解しようとしてだろうし、そういう一アメリカ人を目の前にしたとき、私はありがたいと思った。そういう人と、今こうして食事をしている自分が光栄でもあった。
 函館にもどった時、私は一寸用があったので、立待岬は安東君に案内してもらうことにし、図書館で落合う約束をして車をおりた。おういそぎで用を片付け、私は図書館へいった。キーンさんも安東君もいた。図書館で啄木の資料をみたあと喫茶店によって別れた。キーンさんはまっすぐ旅館へ戻った。私と安東君は五稜郭でおりた。だが、二人ともまだキーンさんと一緒にいたい気持があり、桜井君をさそって、三人でキーンさんの旅館へいき、キーンさんを街へつれだし、寿司屋の二階で、四人して夕食をとった。刺し身とにぎりである。それにお酒を飲みながら、今度は文学の話をした。
 私はキーンさんと三島由紀夫の話ができたことが嬉しくてならなかった。私は三島ファンであり、キーンさんは三島由紀夫の戯曲と小説を訳しておられる。キーンさんの三島観は私にも通じるものがあり、あんなにも楽しい夜をすごせたことを、今もわたしは仕合せだと思っている。
 もう一度キーンさんとお会いしたいがそういう機会が、私にあるだろうか。私は悲観論者だから、もう会えないだろうと思っている。  キーンさんも日本を離れるとき、もう日本へ来れないと思ったそうである。そして機内で、荷風の「すみだ川」を読んだそうだが、その文章の美しさに触れると、涙が出てきたといった。「私は泣いたことがないんです。その私が泣いたんです」といったキーンさんの言葉がまだ耳に残っている。
 そのキーンさんがしかし日本に住むようになった。……してみれば、私も又キーンさんに会えるかもしれない。今度お会いしたら、どんな話をしようか……私は時々こんな空想をして、楽しかったキーンさんとの一夜を思い出している。キーンさんはじつに素敵な日本人である。
(月刊はこだて 1974年11月 No 147)


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