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随筆あれこれ

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嫁ぐ日


 妻が呼びに来た。娘の化粧するところから衣装が着せられるまで、いちぶしじゅう見ていて、スナップ写真を撮ったと言う。
 新婦着付室へいくと、真っ白いウエディングドレスを着た娘が椅子に坐っていた。
 「あなた、どうですか」
 と妻は言った。
 似合うかどうかということか。それとも、もう自分たちのモノではないということか。
 私は永いこと、娘を他人様から預って育てていると思ってきた。勿論娘は自分の子供だが、嫁ぐ日が来ても慌てなくてもいいように、私はそう自分に言いきかせてきたのであり、ウエディングドレスの娘を見たとき、ああ、遂に、娘を返す日が来た、これから神殿へいき、妻と一緒に、私は娘を返すのだと思ったものだった。
 娘はブーケを持ち、突っ立っている私に、
 「永いこと……」
 と途中まで言うと、照れくさそうに笑った。自分に相応しくないことを口走ったからか。多分そうだろう。娘はただ「ありがとう」と言うつもりだったらしい。それを世間の通念に習って、永いこと……と、口にしてみたが、どうも自分の言葉でないと気付き、急に可笑しくなって笑ったのだろう。私も笑ったが、これからは今までのように、自由に娘を訪ねることが出来なくなったと判って、なるほど娘はそういう関係の終りを告げたのかと思った。
 私は息子というものを持ったことはない。娘しかしらぬ。それも一人娘で、結婚も人生も最初から娘の自由にさせていて、婿を貰うというふうに思ったことはない。私は直系の長男で、四代目で、じつはこのへんでその直系の歴史を終えたいと思っていた。だから娘を嫁がせる気持しかなく、私の家系は、私で終りにしたい。それは本家というものは重さだけあって、役立たない亡霊のようなものだと身に滲みて思ってきたからである。
 それに私は、子供は決して親と暮してはならぬと思っている。一つの家に、親と子が住むことは、どちらもダメになる。ジェネレーションという言葉がある。世代と訳され親子関係を言い、だいたい三十年の間隔をさす。世代が異なれば、年齢も三十歳違ってくるのだから、肉体の疲労も、趣味も、味覚もかなりの相違やひらきが出る。あたりまえなことで、それを我慢して親子が一緒に住むことは愚かすぎる。  友人の一人が、一人娘なのに、よく放す気になったねと言うが、娘が大学に入ったときから、私は娘を自由にさせていた。それとこれとは違うというが、嫁がせることは淋しいことだが、しかし、もっと以前に、娘が成長する度ごと、私は淋しさを味わってきた。子供を育てるとはそういうことだろう。成長とは自立することで、親を必要としなくなることだ。誰もが味わってきた淋しさだ。その淋しさと、嫁ぐ娘に覚える淋しさとは少し異なるが、娘を持った父親の踏絵のようなもので、淋しいといっても踏まねばならず、どうせ踏むなら笑って踏むより仕方あるまい。
 娘と一緒に暮したのは高校生までで、大学時代もそうだが、大学を出るとそのまま勤めて、娘は札幌に住んでいた。職場結婚ではないが、仕事をとおして知り合った男性と娘は結婚した。私はまだそのM君とゆっくり話し合ったことがなく、一抹の不安といえば、まだ互に気心が知れていないことだ。
 私に『肩車』という小説がある。娘がモデルになっているが、この間後輩のT君が、
 「結婚なさるというのは、『肩車』の娘さんですか」
 と言った。頷くと、おめでとうございますと言ってくれたが、娘がまだ幼くて、母親を一番必要としたとき傍にいたのは母親ではなく、役立たぬ私であった。その頃私は余り収入がなく、妻が教員をして働いていた。  それに事情があって、私は両親と別居し、妻と子供の三人で、実家の近くに、部屋をかりていた。妻は朝出勤するとき、子供を実家に連れていく。私は十時頃起きて一人で食事をする。その後で仕事にとりかかるが、原稿を書く仕事といっても、雑文が多く、当時雑誌ブームで、観光とか地方の食文化の老舗とかの取材や紹介記事で、煩雑の割には金にならず、そして自分が本当にしたい小説の方は、注文があるが没になることが多く、そんな暮しぶりだった。
 夕方子供を今度は私が連れに行き、少し足をのばして、子供と二人で電停まで妻を迎えにいったりした。
 娘は幼児期、母親より、父親である私といる方が多かったが、風邪などひいたときは困った。そんなことを思い出しながら、ウエディングドレスの娘を見ていたが、知らぬまに子供は成長するものだと思った。
 十二月十六日、札幌の全日空ホテルで、娘は結婚式を挙げたが、その日どりも、予約も、披露の会場も、料理も、引出物もすべて娘と夫になるM君と二人で決めた。三十人の質素な結婚式だった。仲人もない、両家の親戚、知人を集めた結婚式で、私は娘とM君のために、人間の出会いのふしぎさを話して餞としたが、物質的なことはすべて妻にまかせ、私は娘に一体何をしてやっただろう。私が与えたものは言葉だけだった。悲しいときは一緒に悲しんでやり、嬉しいときは一緒に喜んでやった。それだけだ。娘の学費も、結婚にかかった金の仕度も、すべては妻がした。夫婦の間で、収入の多い方が、余計金を出せばいい訳で、そういうことでは私は劣等感はなにもない。ただ余りにも普通の家庭と違うので、ときどき妻や娘にとって、一体私は何だったのかと思うことが多い。
 無事、結婚式は終ったが、おまけが一つある。妻の撮ったスナップ写真が一枚も映っていなかった。咎は私にあった。この日のために、妻は全自動式のカメラを買ったが、そこへフイルムを入れたのは私で、入れ方が悪く、すべてが空回りになり、かくして妻が撮った娘の花嫁衣裳のスナップ写真は一枚もない。
 旅先の娘から、
 「おとうさんは物事に慎重なのに、昔から、大事なところでは失敗する人だったね」
 と妻に笑いながら電話があったという。
 私は自分の目しか信じていない。カメラの目は面白くないから、スナップ写真がなくても気にしないが、ただ一所懸命写真を撮っていた妻には、大変悪いことしたと思っている。
 そして、その思いが、娘を嫁がせた淋しさを忘れさせているのかもしれなかった。
(タウン誌「街」 1985年1月 No.269)


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