随筆あれこれ |
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フランスの歴史家、フィリップ・アリエスに言わせると、昔は子供はいなかったという。子供はいたが、それは子供とは呼ばずに、小さな大人といっていたらしい。そしてこの小さな大人には青年期がなく、すぐに若い大人にされ、子供の発見は近代になってからだという。 子供が小さな大人といわれていたときは、子供は一種の匿名の状態におかれていた。いわば家畜と同じで、死んでも悲しまれなかった。一人で死んだら、もう一人生めばいいからで、いつも代りができると思われていた。こういう時代だから大人はしばしば子供を虐待した。 たとえば嬰児殺しである。中世では嬰児殺しは、教会は罪にしたが、添い寝していた母親が疲れて圧死させたといえば、罪にはならなかった。嬰児を生かすも殺すも、母親の気持ち一つである。それに当時は夫婦の間や、親子の関係は、家族生活にとってさほど重要ではなかった。大事なのは家庭の外の生活、親方と奉公人、友人、隣人、女性と男性の関係といったものである。 こうしてみると子供を虐待していた中世は、今の日本の社会に似ている。今の日本の父親も、親方と奉公人の関係、友人、同僚との付合を最優先させ、また母親も、友人、隣人つまりカルチャーセンター等のコミュニケーションを重んじて、夫婦揃って家庭を省みない。ここでも虐待されているのは子供である。 アリエスはその著、「<子供>の誕生」のなかで、「子供」の発見は19世紀以後であるといっている。 最初に子供に気付いたのは学校だろう。学校は英語でスクールという。これは、ラテン語のスコールからきており、スコールとは暇という意味である。学校は暇のあるところ、余暇である。余暇があって、初めて「子供」が発見されたのである。 子供とは決して小さな大人ではない。子供は大人とはまったく違う文化を持っている。子供を匿名の状態に置いてたときは判らなかったが、子供の成長をつぶさに観察しているうちに、子供には様々な個性があることや、子供が大人になるまでに、幼年期、少年期、青年期といった微妙な成長過程のあることが判った。そして先ず何より学校とは、多様で面白い子供を発見する唯一の場所でもあったのである。 しかし、今の日本の学校教育は、これとまったく反対方向へむかっている。「子供」の発見を捨てて、学校から余暇を取りのぞき、大人社会の競争を導入し、子供を小さな大人にしようとしている。これは精神的虐待である。 私が教員をしていた昭和23年から25年までの3年間は、日本の学校は「子供」の発見に熱心であった。明治以来の長い学校教育のなかで、もっとも理想的な学校教育ができた3年間かもしれない。アメリカから本当に理想的な学校教育がはいってきていて、何の束縛もない、その人間の個性をのばすルネサンス時代の全人教育が目的で、中学校から高校へ行くにも小学区制であった。 それが朝鮮動乱以後おかしくなった。理想は国の方針でかんたんに踏みにじられ、子供たちは小さな大人に逆戻りさせられ、学校は大人社会の縮図のように、競争の場となった。現在は中学校のテストの段階で、すでに個々の生徒の入学可能な大学が線引されているという。夢も希望もない、恐るべき競争教育である。 「子供」の発見から僅か一世紀たらずで、再び子供は、個性をもぎとられ、点数でランクされる匿名の状態に追いやられようとしている。 これでいいのだろうか。このまま受験地獄を放置しておくと、すべての子供は二種に分類される。優越感のある子供と、劣等感の強い子供である。優越感のある子供は、人間の悲しみを知らず、劣等感のある子供は、先へいって暴力を振うだろう。 二十一世紀を委ねる人材のことを考えれば、われわれ大人は、ここでもう一度、「子供」の発見に目覚める必要があるだろう。 (平成3年1月 北海道新聞全道版) |