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随筆あれこれ

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痛み

 今でも具に覚えているのは、外で近所の友だちと遊んでいると、突然右膝が痛みだしたことだ。四歳の時だった。足がつけず、私は這って家へ帰った。
 痛みの記憶は、このときの光景からはじまるが、以前にも私は足の痛みで家へ帰ったことが何度もあるに違いなかった。
 這って玄関の戸をあけ、式台の上から私は母を呼んだ。母が飛んできた。足が痛いと訴えると、母は情けなさそうな顔で私を抱きかかえ、仏間に床を敷いて休ませた。祖父か祖母が、仏間に床を敷いた方がいいといったのだろう。
 私の右膝は結核菌に冒されていて、治る見込みはなかった。どんなに私が足の痛みを訴えても、父母には手のうちようがない。医者を呼んでも、治療法はなく、幼児なので痛み止めの注射もできなかった。昭和の初めなので、結核菌が骨を蝕むと、その猛威のときがすぎさるのを凝っと見ているしかなかった。
 それで祖父母は孫の私を仏間に寝かせて、仏壇の扉をあけ、明かりを燈し、先祖に何とか孫の苦しみを救ってほしいと祈っていたのだろう。
 主治医は、右足を切らずに、結核菌の繁殖を右膝でとめようと頑張ったようだが不可能で結局右足を切った。それまでの数年間、私は、結核菌が骨を蝕む猛然とした痛みに襲われた。
 痛みとは何だろう。今私の関心を捉えているのは、この痛みの問題で、それで私はしばしば幼児期の自分に遡っているのである。
 何が判ったのか。人間は精神と肉体からできているということだ。幼児の私は、病んでいる肉体を凝っと見ながら、精神がどんなに苦しんでいるか経験したん違いない。
 私の幼児期は肉体の苦痛から始まった。これはどういうことだろう。普通の子どもと違うということだ。痛みが、私の存在を、私に知らしめているのだ。
 キルケゴオルはいう。「死であろうと地獄であろうと、わたしは無視することができる。しかしわたしは自分を無視することはできない。たとえ眠っているときでも、わたしはわたし自身を忘れることはできない」
 この無視できないわたしとは何か。幼年期の私は、右膝が気が遠くなるほど痛む私である。外界なぞどうでもよかった。いったい何故に、幼児の私は、こうも痛みに包括されねばならないのか。幼児にして判ったことは、この痛みは誰にも代って貰えないということだ。これは私の痛みであり、他者の痛みではない。父母や祖父母は、同じ運命共同体だから、私とは違う誰にも代って貰えない息子や孫の痛みを生きていた。しかし、その他の人々は違う。公衆と呼ばれる人たちは違う。彼らには私の痛みは判らない。痛みとは具体的な現象だからである。
 沖縄の米軍基地の問題は、沖縄の人々にとって具体的な痛みである。だから橋本首相には判らないのである。判らないから、彼は沖縄の具体的な痛みに、抽象的な言葉を吐くことができるのである。その抽象的な言葉とは、日米安保条約は国益であり、我慢してほしいである。
 キルケゴオルが、無視できない自分といったのは、たんなる自然発生的な自分のことではない。自己である。自己とは積極的な自分であり、キルケゴオルの、ああまで無視できない自分とは、いま、ここに存在している具体的な自分で、その自分が他者とかかわっているのを自己という。沖縄の人々の場合は、米軍基地である。戦後五十年も経つのにその他者は厳然として存在しているのである。私の場合は結核菌で、私は痛みは代って貰えないことを知ったのである。沖縄の人々も、私も、国家を上位に置くヘーゲルの言葉でいえば「特殊な個人」なのである。
 ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、「特殊な個人は不完全な精神であり、具体的な形態ではあるが、それは……」絶対理念としての全体性から見れば、「……かき消された形で現存しているにすぎない」という。
 キルケゴオルはこうしたヘーゲルの、「自己」を退ける哲学に「体系的思惟者」の欺瞞を見たが、私は国家が「抽象的」もしくは「体系的」思惟をかざしてくるとき、私の痛み、その具体的な事実は泣き寝入りするより仕方ないということを知ったのであった。
 私が生まれたのは昭和四(1929)年である。足が病んだのは翌年であり、右足切断は昭和十一(1938)年で、二・二六事件があった。一人の幼児が右膝の痛みに苦しめられていたとき、私の家の外では、天皇を中心の強力な国家体制を作ろうとして、個人の発言を封じ込めていた。「天皇ハ神聖二シテ侵スベカラズ」というのは、「個人の発言は認められない」ということで、この思想は敗戦まで続いた。
 私にはいま一つ忘れられない出来事がある。小学校六年のとき見た祭りのさいの鳥居の前の光景だった。そこには身体の不自由な乞食たちが、むしろのゴザに坐って物乞いをしていた。祭りの時だけ彼らは、公の前に顔を出せ、物乞いが許された。七、八人の手足や目の不自由な乞食にまじって、私より四つか五つ年上の、右足のない少年の乞食もいた。
 私は立ちどまって目を据えた。いったい彼らは何者なんだろう。まるで哀れな吹きだまりのように、彼らは鳥居の前に集められていた。しかし、まもなく私も、彼らと同じ運命にあることを知った。小学校を卒業したあと、私は中学校を受けたが落とされた。高等科へいって再度中学を受験したがまただめであった。高等科二年のとき、身体が不自由でも夜間中学なら大丈夫だろうと担任にいわれて受験したが、そこも不合格で、はっきりと、私は、手足が曲がっていても身体についているならいいが、義足は入学させられないと、中学生を海兵や陸士や幹部候補生に送りこんだ数を自慢していた函館中学校の校長にいわれた。肉体の欠陥者は「かき消された形で現存しているにすぎない」のであった。
 高等科を出ると行くところがなかった。それがたった一つだけあった。青年学校が急遽夜間の工業高校に昇格したが、そこの聴講生ならいいという。そこへいって私は唖然とした。障害者が十四、五人いた。義足は私一人だが、腰の結核で松葉杖を両方ついている生徒がいた。彼は文学少年で、江戸川乱歩や中里介山の『大菩薩峠』を読むようにすすめた。ロートレックのように背丈が普通の生徒の半分しかない少年がいた。彼の姉は女学校の英語の先生で、敵国として英語は禁じられていたが、彼はデケンズの『クリスマス・キャロル』を原書で読んでいた。生まれながらに、両足の指が十本ともない少年や、左の足がねじれて付いていて歩くのに時間がかかる少年がいた。ここでは、彼らの個性も能力も少しも重んじられなかった。夏でも教室の光が外に漏れないように黒い遮断幕で窓を覆ったむし暑い教室の隅で、彼らは吹きだまりのように坐っていた。鳥居はなかったが、彼らは何を乞っていたのだろう。人権だった。

 戦後、私を救ったのは、宗教でも、文学でもなかった。昭和二十一(1946)年十一月三日に公布された新憲法である。この憲法がなかったら、われわれ障害者は、引き続き「かき消された現存」として忘れられ、市民権を得ることはできなかったろう。
 今もそうだが、私はこの日本国憲法を見る度に、詩的感動と胸の高鳴りを覚えるのである。その箇所は前文の「主権が国民に存することを宣言」するで、それは、私のような「かき消された現存」者の声を聴くということであった。鳥居の前の、身体の不自由な乞食たちの具体的な悲しみも聴くということでもあった。ついこの間までは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という訳のわからない抽象的思惟によって、個人の言葉は封じこめられてきたのである。
 イエスは底辺の民衆といつも一緒にいて、「幸いなるかな、心貧しき人よ、天国はあなたがたのものなればなり」といた。心貧しい人とは、貧しい人よりももっと貧しい人、障害者とか、犯罪者とかである。天国から彼らは締めだされていた。彼らは汚れた嫌われ者であった。イエスの言葉はしたがって革命的なものであり、その言葉に、日本国憲法の「主権在民」「基本的人権」「だれもが奴隷的拘束から免がれている」が重なるのである。
 この精神の延長上に憲法第九条を見ると、そこに具体的像がはっきりと見えてくるだろう。交戦しないとは何か。それを許さないとは何か。よく一国平和主義とか、一国だけ血を流さないで国際社会に生きられるか、というが、この第九条は、自分の血を流さないということをいってるのではない。血を流させないという積極的なことをいっているのだ。
 血を流させないとは、障害者を作らない、難民を作らない、死者を出すことによる悲劇を作らない、さらにまた、営々と人類が築いてきたところの文化や文化財や都市の歴史を壊さないということをいってるのだ。
 私は前回、日本人の考え方で、人は死ねば仏になるとはすぐれたものだといった。ところでこの言葉は安易に取られているようだ。その証拠は、人が死ねばすぐ坊主が来て葬式の値段を決める。仏教が人の死と死ねば仏になる思想を金と結びつけて堕落させた。
 この、人の死と仏になる思想とは、親鸞のいう「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」のぎりぎりの悟りがあって成り立っているのだ。人はさんざん罪を重ねてきた。死ぬときその罪の痛みを知って息を落とすから、仏になれるのだ。
 日本人はこの精神を忘れてきた。そういう日本人だから、日本国憲法も、どんなに優れたものか、その精神が読めないのだろう。この憲法は世界の総意から生まれたものだ。世界の総意とは、痛みのことである。
(タウン誌「街」1997年6月号 No.418)


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