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言葉だけになった妻


 妻は言葉だけになった。
 しかし、これらのいくつかの言葉はたんなる思い出という単純な言葉で括れない。そこには今際(いまわ)の時の悔しさ、人生の莫伽(ばか)々々しさ、抗議からさらに死への不審もある。最期に妻は『神様はいますか』の私の小説を手にしながら、「神さまなんかいるもんですか」と言った。
 妻が残したこれら究極の言葉をいま私は、妻の人となりや思い出を通して、人間の根源とは何かを探す手かがりにしている。私が妻の死に遭って発見したのは、無意識のうちに死を予感し、自己喪失の深淵(しんえん)をのぞいたときの妻の悲痛な言葉であった。
   一生懸命生きようとか、治りたいとか頑張っているのに、どんどん私を死の方向へ追い込んでいっている。
 私は答えようがなかった。さらに妻は、あなたが前立腺がんで排尿困難から二度も手術なさったとき、私はあなたを失って一人になると思い、そのとき私は深淵に落ちていくだろうと思った。しかし、今は逆転してあなたが深淵の世界の住人になるのかもしれない。かわいそうだわ。
 姿なき妻が私に突きつけているものは、この深淵世界である。人は自分の思いや言葉が、人の心に触れて返って来るから生きることができるのである。何の反応もなく、思いや言葉が深い闇に吸い込まれていく状況のなかで人は生きていけるものだろうか。今の私は思い出すだけで、そこには、妻との対話も会話もない。ポッカリと深淵が口をあけているだけだ。
 これからたった一人の老いの人生が始まる。しばしば戸惑うのは、今日はなんとか生きられたが、明日はどうなんだろう。妻を失ってはじめて私は、悲しみだけを知ったのではない。生きることのむずかしさを知ったのであった。
  (北海道新聞 立待岬 平成15年)

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