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いかソーメン

 夏になると食べもの屋に「いかソーメン」という文字がはんらんする。しかし私は、どうもこのいかソーメンなるものに、何か割り切れぬものを感じている。
 函館の夏はいかの季節だ。とくにやりいかの刺し身がうまい。料理には工程というものがあって、刺し身ひとつにもいかの幅をどれくらいに切るかで味も変わる。ソーメンのように細く切ったのではいかの美味はない。それに料理は器も関係してくる。刺し身ざらに、一つかみのこんもりとしたいかの刺し身を青紫蘇(じそ)を添えて載せ、その端に土生姜(しょうが)をおく。これだけで見た目が涼しく美しい。料理はまず視覚が大切だ。
 さて、次にその土生姜をしょうゆにとき、割りばしでいか刺しをつまみ、ほんの少ししょうゆにつけて食べる。いかのこりこりした感触と生姜の風味がじつに舌に美味で、これがやりいかの最高の食べ方だ。
 それがいかソーメンとなると、こういう美味も風味もない。まずくはないが、いかの食べ方としては、俗っぽく賛成しがたい。
 ところがこの間東京から来た友人が、一も二もなく、いかソーメンが食べたいという。いくらこちらが、いか刺しのよさやうまさをしゃべっても、いかソーメンを所望し、どんぶりを抱えて彼はいかソーメンをむさぼった。そんな姿を見て観光は食べものを悪くすると思った。
 私は政治は革新だが、食い物は保守的なのだ。
       (朝の食卓・北海道新聞/掲載年不明)

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