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悲しい存在


 前立腺がんが骨に転移したということで、私は放射線治療のため入院した。放射線は私に合うのか、効果がすぐ出た。しかし、今私が関心をよせているのは治療の効果ではなく、この時放射線の主任であった医師から聞いた話にである。
   彼はがん患者を、小学校の運動会の棒倒しにたとえた。あの競技は、早く倒したほうが勝ちであるが、医学界における棒倒しは、倒さずいかに支えるかにあるという。この棒とはがん患者のことで、支えているのはそれぞれの分野の医師たちである。
 彼に言わせると、がんは総合的に研究して初めて根絶が可能で、一分野の医師の独断専行では失敗すると言うのだ。
 ところで現状はどうかというと、「最初はいかにも各分野でがん患者を支えているかのように見えるが、突然外科医が、時間がない、と手術を始めて、われわれ放射線医師はコケにされることがある。大事なのは切らずに、最初に放射線ありきの考えから始めるべきなのに」と彼は言う。
 がん患者をテロリストに置き換えれば、この話は平和を先行させない現代の政治世界に似ていると私は思った。テロをなくするにはどうするか。できるだけ手術(攻撃)を避けて、平和解決しなければならないのだ。
 だが今、話し合いとか、時間をかけて平和裏に物を解決するということが、喜ばれるどころか否定されている。外科医とか、政治家の中には、異分子は根こそぎ取り除かねばならないと、独断専行することに取りつかれた権力志向がある人もいるのではないだろうか。
 これはよほど人間が成長しなければ、なくならないものだろう。アウシュビッツというひどい拷問にあったユダヤ人が、国家を持ち、独立すると、近隣諸国に自分たちが受けた拷問と同じことをする。
 経験は人間を成長させない。人間は互いに協力しあえない悲しい存在なのか。
(北海道新聞 立待岬 平成15年6月)


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