コラムあれこれ |
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昭和十二年の秋、一人の青年が箱を大事にかかえて家へ来た。その箱の中には、七歳のとき切断した私の右足に似せて作った義足が入っていた。足を切ってから一年近くも待たされた新しい足である。 しかし、箱の中から義足を取り出したとき、思っていた足ではなかった。私の頭のなかでは義足は、こんな冷たい感じではなく、もっと優しくて温かくて柔らかいものであった。出来てきたのは足の死体だ。私は混乱したことを覚えている。 子どもだったから、義足は外からやって来た思想であるという考えができず、いったいこの木で作った足は、どこから来たのだろうと思った。だからそれを内なるものに変えるには、長い時間が必要だった。 人はだれでも母の胎内からもって来た両足で生活している。従って外から足が来て、その足をまったく内なる自分のものにする苦労はいらない。私の場合はそのだれも必要としない外の思想を、なんとか内なるものにするための訓練がいるのだった。 その歩行の調教師は当時六歳と四歳の二人の弟で、彼ら二人は、この外の思想を嫌って義足を付けたがらない兄を叱って、むりに義足を付けさせ、良い左足とすれすれに義足を思いきって前で出すと格好よいよと、兄の下手な歩きをチェックした。私はいわれたとおり歩くのだが、小石に躓いては何度も転倒した。すると二人の弟は、走ってきて、さっと起こしてくれた。 外からやって来た思想を手なずけて自分のものにするには、一人の力ではだめで、二人の弟の助けが必要だった。 私は義足は外からやって来た思想と呼んでいるのは、いくら義足をうまく操って歩けるようになった今も、夜寝るとき義足をはずすと、それは内なる柔らかいぬくもりのある足とは異なる、出所不明、正体も不明な木の冷たい足に変わるからである。 (北海道新聞 立待岬 平成10年12月) |