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信じたい、子どもの澄んだ目


 気になるほどの雨ではなかったので、昼食のあと散歩に出た。濡れた並木の若葉が道なりに続いている。すこし歩くと小学校がある。黄色い覆いのランドセルが次々校門から出てくる。雨傘はすぼめたまま、帽子だけかぶって児童たちは二列に並んで歩道を歩いた。車が通っていないが、信号が赤の間は立ちどまり、青になって渡った。
 小雨の中の小学生は、濡れた若葉のようにすがすがしく、目もきらきら輝いていた。歩道のないところでは、車が来ると、お喋りをしながらも道の端によった。
 わたしの子どもの頃は、道いっぱいに広がって思い思いに歩いた。先生は禁じていたが道草をした。車も信号もない。道は人が歩くところで、人以外のものが通るとすると、野菜を積んだ馬車とか荷車で、それもめったに通らない。道は子どもの遊び場でもあった。
 今の小学生は校門を出ると、いくつかの信号を通り、同じような家並みを見ながら道草もせずに家へ帰る。札幌にいるふたりの孫もそうである。先生がうるさくいう交通ルールを守って帰宅したあと、学校であったことを母に報告し、塾へいく。のんびりできない生活だ。
 テレビや新聞によると、小学校低学年から今の児童は手に負えないという。いくら先生が立って歩くなと注意してもききいれない。ひとりやふたりでない。三人四人と立って歩くと、もう授業ボイコットの革命で経験の少ない先生だけでなく、十年以上のベテランの先生まで手こずり、すっかり自信をなくしたと語っている。
 子どもたちは変ったのか。殆どの先生は変ったと答える。昔は教室へはいると小学一年生でも椅子に坐って授業を待った。飽きて歩いても、注意されると自分の席にもどり、静かになった。今は先生の話を十分としてじっと聴くことができないらしい。親の躾がなっていないからだという。幼稚園での個性教育に問題があるともいう。
 小雨の中、交通ルールをしっかり守って下校する明るい児童の姿を見ているわたしには子どもたちが変ったとは映らない。相変わらず表情は生き生きし、古希のわたしに、おじいちゃんが死んでも、ぼくたちは次の日本を創っていくからね、と言っているように見える。
 わたしは戦後民主主義教育が定着しようとしていた昭和二十三年から二十五年の三年間、中学校で教員をしていた。文部省も日教組もうるさくなかった。教室にはいると、そこは教師の天下で、教科書を教えるのではなく、教科書で自分の考えている教育ができた。
 それが朝鮮動乱以後、その戦後民主主義教育は崩れた。わたしは文学が学びたくて東京に出た。教員時代の同僚から、文部省の管理教育が日ましにきびしくなり、日教組の現場教師無視も始まって、われわれ心ある教員は板ばさみの状態、といった手紙を貰った。
 それから四十年経った今、その変ったといわれる子どもたちは、小学校では学級崩壊、中学校では学校崩壊を引き起こしていると言われ、ある中学校教師は、卒業間近の生徒について、こう言っている。「私の努力を嗤うかのように、一所懸命やっても、躾は幼稚園なみ、学力は小学校五、六年、世俗の知恵は高校生、これが中学三年生の実態です」と。
 小学校の先生の嘆きも、中学校の先生の苦悩も、わたしは嘘だとは思っていない。わたしは自分も含めて、本来のあるべき日本の姿、敗戦を契機に文化国家として成長するはずの崇高な精神を、早い段階で日本人は見失ったと思っている。原因は朝鮮動乱で経済特需の味を知ったからだ。
 俄に金持ちになり、暮らしが楽になった日本人は、心をなごませる自然も広場も開発という名のもとに壊してきた。それが子どもの心に暗い影をおとさなかっただろうか。子どもたちが変ったより、子どもをとりまく環境も生活も変ったのだ。いじめ、暴力、不登校をどう見るか。ただひたすら豊かになりたいと願って競ってきたわれわれ大人への抵抗、警鐘と見るなら手の打ちようがあるだろう。教育の危機が間近に来ても、これに冷静沈着に対処する先生はどこかにいるはずだ。わたしはそれを信じる。
 またわたしは、こうして小雨の中、眩しいくらい澄んだ子どもたちの目を見ていると、彼らも十分信じられるのだ。なにか言っても行き詰った日本の経済や文化を二十一世紀に向かって誰が打破するのか、それは目のまえの子どもたちしかいないのである。彼らが信じられなくて、どうしてこの先の老いが生きられよう。
 (平成12年6月 北海道新聞全道版)


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