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八月十五日


 A級戦犯が合祀されたことで靖国神社の意味が変わった。それまで靖国神社とは英霊を祭っている神社ということであったが、A級戦犯合祀以後は、かつての国家体制、神道日本の復活で、分かりやすい言葉で言えば、韓国と日本は合法的併合であり、中国への侵略は自衛のための進攻であったということになる。
 それだけにとどまらない。A級戦犯の合祀によって、戦争責任者はいなくなる。これは外にたいしてだけでなく内にたいしてもである。学生や若者を狩りだして、中国大陸で狼藉の限りをつくさせたり、零戦に乗った兵士に生還ではなく死んでかえることを強いた犯罪者はだれか。生殺与奪の権を握って、一億玉砕を最後まで命じていたのはだれか。この固執が戦争終結を延ばし原爆投下を招いたのだ。
 A級戦犯は永遠に裁かれねばならない。彼らは国民の死を自由にできるという権力の象徴なのである。そのA級戦犯が合祀されている靖国神社に、一国の総理が参拝したことは内外にどういう影響を与えるかということが、小泉首相は何も分かっていない。そういう人間に、日本の改革はまかせておけない。
 かつてヒトラーはドイツの改革をうたって国民の人気を握った。次に彼のやったことはユダヤ撲滅だった。こうしてヒトラーはドイツ国民の選民意識をあおった。改革を言って日本国民の人気をものにした小泉首相が、A級戦犯合祀の靖国神社を参拝したことは、ユダヤ撲滅のヒトラーと同じに、韓国・中国との良いつき合いができていた信頼を壊して、日本国民に選民意識を植えつけることである。選挙中の、日本はこじきもホームレスも新聞が読めると小泉首相が言ったのも、選民意識の現れと言える。
 この発言はそれだけで日本国憲法の否定だ。九条は不戦だけを言っているのではない。その背後にある高い精神は、選民意識の否定であり、全世界にむかって、戦争責任者は永遠に国として祭らないということを言っているのだ。
(北海道新聞 立待岬より 平成13年8月15日)



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