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ボヴァリー夫人


 フローベルとドストエフスキーが同時代の作家であるということに、私は大変興味深いものを感ずるが、それはさておき、このフローベルの傑作「ボヴァリー夫人」は風俗を著しく傷つけたということで裁判ざたになった。結果は無罪で逆に作品も作者も有名になった。これは姦(かん)通小説である。しかし、女主人公エマ・ボヴァリーは夫を裏切らねばならぬ理由はなんにもないのである。夫シャルルは夫の中のカガミのような人物で、妻を愛し、生まれた娘を愛し、ひたすら家族のために田舎医者として働く。
 通俗な姦通小説は読者におもねるために、人妻が姦通せざるを得ない外的条件を作るが、エマにはそういう条件はない。だから、これは通俗小説ではないのである。人間の根源的問題を扱った小説で、エマは自分の自発的な内的情念で夫を裏切るのである。
 だからどこにも救いはなく、サント・ブームが、英雄小説と名づけたのもそこにある。まさに歯止めのきかぬ情念に導かれてエマは滅びていく。夫は妻の浮気も悩みも知らぬ。エマも夫に関係なく喜び、傷つき、悩み、最後は借金で悲劇的な自殺をとげる。夫はなぜ妻が自殺したかも分らぬ。
 二十代のとき、私はこの作品の重みを知らなかった。五十の今読みかえして「夫婦とは何か」考えさせられた。一緒にいるから夫婦は同じ世界に住んでいると思うのは間違いだ。一緒にいるが故に、夫婦は別々な世界に住んでいるので、怖いのはその差のひろがりである。
(北海道新聞 朝の食卓より 昭和57年1月)



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