随筆あれこれ

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函館競馬場


 競馬は人間の心に宿ったロマンかもしれぬ。トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』の秀逸な場面も競馬である。恋人ウロンスキイの乗った馬のアクシデントにアンナが心を痛める。そのときアンナの姿を文豪はじつに見事に活写している。もう一つ忘れられないのは、織田作之助の競馬小説だ。6という数字を追って、競馬狂は金と人生を賭けるのであった。
   函館の競馬場が駒場町にできたのは明治29年である。以後何度も拡張と整備を繰り返して今日の競馬場になった。
 戦後一時米軍に接収され、昭和22年、再開された。彼方に函館山を望み海を控え、全国でも景観の良いところと折り紙がつけられている。ここは馬の温泉もあり、一流馬も温泉に入りに来ている。
 この農林省管轄の競馬場ができる前は、明治16年、海岸町に、一周約八百メートルの馬場が造られ、春と秋の年二回レースを行っていた。北海道共同競馬会社(時任為基社長)の創立によるものだった。
 馬券の発売が正式に認められたのは大正12年だが、すでにそれ以前に勝馬投票が行われていた。明治40年のあるレースで、一枚十円券で、当り券は一票しかなく四千四百四十円の大穴がでた。これは今でも、語り草になっている。
 当時、競馬場に入るには背広にネクタイか、和服なら羽織がいる。競馬は英国にならって紳士のやるもので、身だしなみにうるさかった。現在は老若男女だれもが思い思いの服装で、気楽に楽しんでいるようだ。遊具も備え家族連れで休日を過ごす場ともなっている。
 JRA函館開催は六月、七月の二ヶ月間で、競馬新聞片手にエンピツで印をつけている若い女性ファンを見るが、競馬そのものよりも彼女らの姿を見る方がじつに心弾む昨今だ。ハイセイコーが茶の間をにぎわしてから、競馬はまったく庶民のものになった。
 (北海道新聞社「函館 街並み今・昔」より  2001年8月初版)


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