随筆あれこれ

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井上光晴さんの死


 私は井上光晴さんと三島由紀夫はかなりの共通性を持っていると思っている。その作品も生き方も違うのに、どうして私の中で結びつくのか? この二人の作家は陽と陰の関係だろう。どちらが陽で、どちらが陰というのではない。かりに三島由紀夫を陽とすれば井上光晴は陰、井上光晴を陽とすれば三島由紀夫は陰ということになるのである。
 二人に共通しているのは「私小説」を書かなかったことだろう。二人とも市井の事件に興味を持ち、それを自分たちの文学のテエマにした。それは現実と虚構の狭間で生きるのが作家だと考えていたからである。
 三島由紀夫は、トオマス・マンを愛した。作家とは職業であるという信念からで、三島もまた佳い小説を書くには、職人が陶器を作るように、勉強と最高の技術を磨くことを怠ってはならないと考えていた。そして、マンはそういう職人の生き方に徹底した作家であった。
 私は井上光晴さんも、勉強と最高の技術を身に付けるべく努力した作家だと思っている。私とのつきあいは五年くらいで短かったが、その間氏は、いつも私にそういうことを言っていた。  私は、「私小説」を書かない日本の作家には何か共通したものがあるのではないかと、かねがね考えていた。そして二十代のとき知った三島文学と五十代に知った井上文学との間に、一つの共通性を見たのである。
 二人とも作家が芸術家の位置にとどまることを嫌った。佳い小説は限りない勉強と技術の琢磨から生まれるとしながらも、三島も井上も、作家が単に芸術家の位置にとどまることを嫌ったことは特筆すべきことだろう。
 三島由紀夫は「楯の会」を作った。井上光晴は「文学伝習所」を作った。文壇からすれば、小説家が小説以外のものに手を出すことは徒労とされているが、「楯の会」や「文学伝習所」が不興をかったとすれば、それは「私小説」のテエマにならないからだ。日本の文壇は、まだ「私小説」が支配的で、金の問題、親子の問題、女、のことが小説の中心で、女のことにしても、トルストイが、アンナの姦通を社会問題として扱ったようなスケエル
の大きな視点では見ることが出来ないのである。そういう見方は大衆小説(久米正雄の言葉)ということになるのである。女の問題にしても、この国では例えば『雪国』のように、「トンネルを越えると雪国であった。」というように、最初から倫理も凄絶な美も無視した遊びの世界の男女のそれで、三島も井上も嫌った世界である。
 三島由紀夫は晩年、「楯の会」と自分の作品とを分けて考える人がいる、たとえば、三島の文学は認めるが、「楯の会」は認めないというふうに、しかし、これはナンセンスだといった。私は晩年のこの三島の意見を支持している。私は三島の文学と、「楯の会」は無関係と思っていない。この二つを並べると判りにくくなるが、いまの私は現実と虚構の狭間で生きた三島の苦悩が「楯の会」に集約されていると考えている。詳細は北方文芸六月号「三島由紀夫の謎」を読んでほしい。
 井上光晴も、「文学伝習所」を作ったことで大変な誤解を受けてきた。ある文壇の評論家は、伝習所の生徒から文壇に登場した作家は少ない、殆どいない、ということで伝習所に疑義を投げかけているが、これは見当違いもはなはだしい。
 「楯の会」の意義が短い年月で判らないように、「文学伝習所」の意義も十年先、二十年先でないとその本当の姿は判らないだろう。井上さんが目指したものが何か。私は二つあったと思っている。その一つは無意識から来ており、井上さん自身にも判らなかったろう。井上さんの死後、ごく親しい人たちから、伝習所に費やした時間はもったいない、その時間のすべてを創作に注ぎこんでほしかったというコメントが出たが、これは井上文学を十分に読んだものとは思えない。
 三島の文学と井上文学を陽と陰の関係といったのも、二人はじつに明快に世界解釈をしたけれど、もう一つの妄想、天地創造をも含めての妄想世界がないのも共通しており、それが一つの欠点ともいえるけれど、世界解釈としての虚構が過不足ないようにできている両者の文学を私は支持したい。
 井上さんは函館の元町にマンションを買ってから函館へはよく来た。私は酒が飲めないからつきあいは悪かったが、それでも井上さんと会うと楽しいから、出来るだけ会っていた。その間井上さんが話すことは文学の話ではなく、自分の子供のときのことだ。伝習所で生徒を集めて講義をしたり、その後で酒を飲みながらのお喋りも、自分の子供のときの話が多いようだった。それで私はこの人は、私小説を書いたらどんなに面白い私小説を書いただろうと思ったものだった。また、川端康成のことになって恐縮だが、「葬式の名人」以上の短編が何篇もできて、違う井上ファンも出来たろう。しかし井上さんは徹底して私小説を書かなかった。自分の人となりを酒の肴にして話し、もっぱら純粋に虚構の世界を守って、それをひたすら白い紙に書いた。「私小説」の世界に逃げることなく、戦後とは何か、を問い続けるために、テリトレアヌスがやった手品、「神の子は生まれた。それは恥ずかしいことだから私は恥じない」というふうに言葉によって世界を逆転させようとしてきたのである。それが可能であったのは、私小説的要素を喋ることで解消できたからだ。その場が伝習所であった。
 もう一つは、井上さんは自分の精神のバトンを渡しにきたのである。それは佐世保から始まった文学伝習所である。井上さんは、文芸誌の編集者も探せない、地方にいるかもしれない優れた書き手を探しにきたのでもなければ、教育をしに来たのでもない。ものを書く本質とは自己革命である。それを実践を以て解きに来たのである。
 現実はかんたんに変らない。それを変えるには、自己革命しかない。ものを書くということは現実では不可能な関係を言葉で変えることだ。まず白い紙でやってみる。何度もやっているうちに、その本人のものの見方が変ってくる。こうして視点が変ると、当然、意識革命が起こる。
 井上さんは小説を書くように云いに来たのではない。意識を変えるように云いに来たのである。文学とはそういうことだ。生き方の問題なのである。文学の質が低下し、低俗な文学が氾濫している悪い時代のなかで、いかにして良い文学をみつけるか、それが先決で、井上さんはそれを云いに来たのである。強烈な個性と敏捷な肉体とで、それを解きに来たのである。良い文学をみつけるとは、想像力の問題である。その失われつつある想像力を刺激しにきたのである。
 そして私は何人かの人たちは、その井上さんの精神のバトンをしっかりと自分の手に握ったと思っている。その辺の、おじさん、おばさんであった人たちが、井上さんに出会って確かに変った。その人たちが、良いものを書くかどうかはずっと先のことで判らないが、意識的になったことは、まぎれもない事実なのである。
 (タウン誌「街」1992年7月 No.359)


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