随筆あれこれ

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温泉(2)

 私には趣味というものがない。読書も絵画も仕事の延長上のものだから趣味とはいえなかった。そのうえ下戸で、それでひととのつきあいもない。何より私はひとと会うと疲れてしまうもので敬遠していた。そんな私がタウン誌を三十年以上も出してきたのだから自分でもふしぎに思うが、文学の話は何時間でもできるのに、世間話はまったくの苦手で、すぐ退屈してしまい、それで疲れるのだろう。また私はせわしい性格で、事務所で使っている女性たちからも、少しのんびりしたらといわれることがある。どうも性分で、いつも何か考えているか、忙しく動き廻っている。それだけに朝の二十分間の温泉は私にとって唯一の贅沢な安らぎの場になった。
 ある日、いつもの朝の時間に温泉へいくと、先客がいた。目礼して身体を洗って湯舟につかっていると、その中年の男性が、上がり湯らしくはいってくると、「おみ足、どうしたのです」といった。名前は判らないが何度か顔を合わせていたひとであった。多分まえまえから気になっていたのだろう。私の年齢で片足がないのは、戦争か、交通事故か、糖尿病かのいずれかだろうが、私はその三つのどれでもない。一歳になってまもなく結核性関節炎にかかり、手当の方法がなく七歳のとき右足を切って結核菌が右膝から上にあがるのをくい止めたのである。説明すると長くなるので、その実直そうな中年男性に、子供の頃罹った病気で切るしかなかったとかんたんにいった。納得してもらえたかどうか判らない。そういえば私もまた街で、盲目の兄弟をみかけたり、若い女の義足姿に出会ったりすると、異次元の世界へ一瞬はいりこんで、盲目の兄弟の行く末を慮ったり、義足の若い女は交通事故か、それとも病気なのかと考えたりした。
 盲目の兄弟とは、よくデパートの寿司店で会った。いつも母親が一緒で、母親は淋しそうな顔をしていた。
にぎり寿司がくると母親は二人の息子にその場所を教え、小皿に醤油をそそいでやった。また若い義足の女性は五稜郭界隈にある珈琲店で見かけた。こうして障害者はひとを立ちどまらせて、彼らに出会うまでは一度も考えたことのない障害や彼らの人生について考えさせるようで、貴重な存在かもしれなかった。顔見知りの中年の男性も、片足の私に出会って、なにかを感じ、誰かを思いだしたのかもしれなかった。
 私は一人になった湯舟に腰だけつかってそんなことを考えていた。そのとき、五十数年まえの、十二、三歳の少年の頃がすっと浮かんできた。混まないうちにと母にせきたてられて、私は学校から帰ると、戦時なので午後の二時頃からでないと開かない年寄りばかりがいる銭湯にいった。
 私が浴室へいくと、四、五人の老人がいっせいに私を見た。そういうことに私はもう馴れていた。そのうち一人の老人が私に話かけてきて、まず年齢をきいた。それに答えると今度は、右足がないようだがどうした、といった。これこれしかじかで切ったというとその老人は、結核という言葉に反応し、結核性関節炎というのもあるんだねと、そのまま口を噤んだ。
 湯舟から上がると、またその老人に呼びとめられた。背中を流してやるというのである。私は素直に応じた。彼は背中を流しながら、わたしにも坊やと同じくらいの孫がいるといった。「正直にいうなら、いたというべきだろうね」私は思わず、「死んだの」といった。背中の手が一瞬とまった。
 「そう、死んだんだ。三年まえ、結核でね。生きていたら、坊やぐらいだろうね。坊やと違って、肺だった。同じ結核でも、場所によって、生きられたり生きられなかったりするんだろうね・・・」
 当時の私には、そのときの老人が大層な歳に見えたが、今の私より若く六十歳くらいだったろう。孫のいる今の私には、少年の私の背中を流して、死んだ孫のことを思いだしていた老人の気持が切々とつたわってくる。孫は彼の唯一の生甲斐だったのだろう。日頃忘れていた孫のことを、片足しかない、湯道具を持ってケンケンしながら浴室にはいってきた少年を見て、老人は思いだしたのだろう。障害者というのは、障害者だけの問題ではない。このように、私の存在は、名も知らぬ一老人の悲しい思いでに繋がっているのだった。
 このときのことは、それ以後、度々思いだしもし、母に喋った記憶も残っている。また、マンションの温泉で先客から、おみ足は・・・と訊かれて忽然と、老人しかいない午後の銭湯が浮かんできたが、そういえば市内でもっとも本があることから私がよく行くSデパートの六階にあった寿司店がなくなってから、私の人生や、闇と光について考えさせたあの盲目の二人の少年に会わなくなった。しかし、彼らはこの街に住んでいるのだから、また新しい寿司店をみつけたかもしれない。しばらく会わないが、どうしているだろうと、あの淋しげな母親の顔とかさねて明るい彼らの顔を思いだしていた。
     〈黄昏転居記より〉

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