随筆あれこれ

トップページ

函館山(2)

 山といえば街の中にはなく、街から遠くに望まれるのが普通である。けれど函館山は山の概念を裏切り、街の一部分で、山の中腹から栄えている。昔の人は、函館山とは言わず、牛が伏した恰好から、臥牛山と呼んだ。三方海で、御殿山が一番高く、薬師山、千畳敷、立待岬と続く。
 函館山の西側に天然の良港があり、その昔、伊豆の下田と共に貿易港に指定され、1854年(安政元年)4月、米国のペリー提督が五隻の黒船を率いて入港している。「日本遠征記」によると、ペリーは函館山のことを臥牛山といわず、テレグラフ・ヒルと名付けた。電信の丘という意味で、電信をおくに相応しい山とみたのだろう。明治にはいって、軍の力が強くなると、函館山は全山要塞地帯になったが、このペリーの慧眼に従ったのかもしれぬ。現在、千畳敷にはペリーの命名どおり送信所がある。

 ペリー提督が来港した際、二名の水夫が水死している。その霊は函館の港が一望に見渡せる山の麓に埋葬され、これが外人墓地の事始めらしい。閑静なところで、この辺は景観もよく、市民の墓地も多い。私の曽祖父が建てた墓も、その外人墓地の真上にある。墓石は石川県から取り寄せた天然石で、港の方ではなく、山に向けられて文字が刻まれてある。曽祖父は近江の人で、ここに骨を埋めるつもりで墓を造ったが、墓標が山を仰いでいるのはなんのせいだろう。
 お盆になると、この西側の山道は人で賑わうが、子供の頃から私にも知悉している道である。お盆は七月だから、函館山の緑は鮮やかで目にしみるように眩い。そして眼下には鏡のような港の水面がひろがっている。
 曽祖父が山に向かって墓を建てたのは、望郷の念がないからではない。近江から来た一人の若い商人を、この山が暖かく迎えてくれたからだろう。
 彼が単身来道したのは、1870年(明治3年)の初夏で、箱館戦争も終わっており、箱館の港は貿易港としてアメリカから航海術、食料品、牧畜産業といった物質文明を輸入し、ロシアからは、宗教、学校、病院、辞書といった精神文明を受け継ぎ、エキゾチックな国際都市として発展の兆を見せていた。近江に育った曽祖父は七代続いた造り酒屋の次男坊である。名を清次郎といい、幼少の頃から進取の気性にとみ、男一匹悔いなく生きるには国際都市としてその緒についた箱館にしくはないと考えたようである。
 それにしても、何処をどう通って来たのだろう。近江から徒歩で新潟へ出て、そこから帆船に乗り、北回りで津軽海峡に這入ったと考えるのが常識である。津軽海峡の入口に、竜飛岬がある。竜が飛ぶと漢字で書くが、どういう意味だろう。これは津軽海峡の恐ろしさを表現したものだろう。時化ると海峡は竜が荒れ狂うように波をたて、船を海底深く呑み込んでしまう。津軽海峡は世界でも名高い難所の一つで、ここに飛び込むと死体はあがらないといわれる。幸い曽祖父が乗った船は、無事、竜飛岬を回り、白神岬に向かい、そこから海岸線に添って箱館の港に這入った。近江を出て一ヶ月くらい経っていたと思われるが、後日、曽祖父は息子に、初めて見た函館山は慈母のようで、自分はあの山を慈母の山と思っている、と語ったそうだ。
 曽祖父が初めて見た時の函館山への感動がそのまま墓にでていると私は考えたい。そして又、私は曽祖父の説に賛成で、函館山の麓を一周すれば、この山が出羽三山や恐山とどんなふうに異なるかすぐ判る。出羽三山も恐山も死者がいく山である。けれど函館山は生きようとする者たちをすべて集めて、十分に生かしてくれる慈悲の山である。幕府がさかんに植林したので緑が多く四季に恵まれ、永い旅路の果てに曽祖父が海の上に見たのも、優しみのあるこの函館山であったに違いない。
 私はこの山ほど寛大な山を知らぬ。麓に世界の宗教をすべて集め、元町にある坂の上と下には、ローマ時代、政治的衝突が原因で東西に分かれた二つの教会、一つはハリストス正教会、今一つはローマンカトリック教会が争うことなく並んで建っている。ハリストス正教はロシア大陸をわたり、ローマンカトリック教はフランスを経て南回りで、いずれも1859年(安政6年)に函館に上陸し、仮聖堂を建てている。戦後、私はローマンカトリック教会でキリスト教史を勉強したことがあり、この界隈は思い出ぶかい。
 面白いのは、このバタ臭い教会のすぐそばに、浄土真宗の東別院がでんと控えていることだ。しかし違和感はなく、様になっている。さらに東へ行くと尊厳な杉林があり、その真下に函館八幡宮がある。その隣り合わせが護国神社で、その他、数えきれない神社仏閣やプロテスタントの教会が点在し、函館山はいかなる信仰も宗派も拒まない山で、旧日本軍による五十年間の捕囚は、この山の本意ではなかった。
 戦後解放されると、堰を切ったように市民は函館山に登った。私も登ってみた。五人の兵隊が歩いた同じ道を歩いていると思うと、私は昂奮したが、登ってみると普通の山で、何もなかった。破壊された山壕の跡があるのみで、地下の組織の滑走路の片鱗さえもない。要塞というより、たんなる監視所にすぎぬ。
 丁度、夏で、汗ばんだ私のからだに、山頂の風は快かった。眼下に函館の街のたたずまいが広がり、横津連峰が彼方に見える。視点をぐるりと変えると海である。陽が沈む方向に曽祖父が帆船で通った竜飛岬があり、その岬と向かいあって白神岬がある。青函トンネル着工以来、流行歌にも登場するが、その真ん中を走っているのが、北と南の混血の海―津軽海峡で、白い帯のように見える。
 現在、函館山は観光にとって欠くことの出来ない名所の一つである。年間ざっと18万台の車が、山頂まで舗装された道路を往復し、百万ドルの夜景を見にくる旅行者も年々ふえている。この姿が函館山の本然なのだろうか。

 函館山は見る方向で姿を変える。外海から眺めると、巨大な亀が海水を呑んでいるように見え、函館の街のたたずまいは、その山のかげに隠されている。船が港内に這入ると、教会や寺院やビルが山の麓に点在し、さらに船が岸壁に近づくと、遠近ができ、坂道や道路が現われる。街から見る函館山はときには優しく、ときには威厳があって近づきにくい。さらにときには芸術家のように寡黙で孤独な姿を見せる。四季によっても異なり、とくに冬は表情が厳しく、忍の一字にさえ見えてくる。
 しかし、私にとって函館山とは、時代を遡り、少年時に見た、夏の終わりか、秋の初めの、黄昏れ時の山でなくてはならぬ。陽が山の影に沈むと、空は朱色に染まり、山の稜線はくっきりと黒く聳え、難民のように鳥が乱れ飛ぶ。既に、重要な密書を携えた五人の兵隊は、私の視野から消えて、いない。近づくことが許されないから、函館山はいつも謎に包まれ、いやがうえにも少年の好奇心をそそのかす。けれど、私の少年時代がもはやどこにも存在しないように、要塞占拠の函館山もどこにも無い。
 それでいて、私の想念の中で、捕囚時代の函館山が、さらに鮮明に生きつづけているのはなんのせいだろう。

 (1978年3月、北海道新聞社「月刊ダン」・北海道新風土記より)


<前の随筆> <次の随筆> [閉じる]