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憲法九条を死守せよ


 第九条で大事なのは、国際間の紛糾を武力で解決しないという精神である。武力介入とは戦争のことだ。二十一世紀の戦争はイラクでも分るように、その兵器の殺傷能力は高い。一度使われると人類は二つのものを失う。一つは再現できない自然破壊であり、いまひとつは次世代まで影響する放射能力を含んでの女・子供の命である。
 憲法は国家が中心ではない。国家も公共も個人が優先するのである。従って憲法はいかに国民の生活のために自然を守るか、そしていまひとつ個人の命を守るかが中心なのである。私が第九条を死守するのは、戦争ができないときのみ自然と女・子供の命が守られるからだ。
 平和とは九条を世界にひろめ、貧しく生き、金もうけを考えず、互いに助け合い、文化国家を創ることだ。それが九条の精神なのに、この国の為政者や資本家や労働者は何を血迷ったのか、金もうけに明け暮れた。情けない。これが第九条に泥を塗った。
 またよくこういう意見を聞く。敵が攻めて来たらどうする。国際貢献をどう考える。私はこの二つを否定する。敵が攻めないように外交努力すべきだ。効果なく攻められたら手を挙げる。戦わないことが大事なのだ。それは日本国家の名誉はどうなるのか。名誉より大事なものがある。誇りだ。誇りとは人間として尊厳を守ることで、それが個人の命を死守するということなのである。
 国際貢献にも何故反対するか。これまでの戦争の歴史のなかで一度たりとも人類愛、あるいは善としての国際貢献があっただろうか。あったのなら具体的に示せ。あるはずはない。国際貢献の化けの皮をはがすと、そこに浮上するのは各国の醜い欲望の顔である。
   かつてモーゼは民族間の争いをなくすために偶像崇拝を否定した。共通の神を持とうと言うのである。しかし受け入れられず殺害された。次にイエスが現われ諸悪の根源が差別にあると主張し、貧しい人よ幸いなるかな、天国はあなたのものなればなり、とユダヤ教の差別に反対し、その結果イエスははりつけになった。
 その流れからいうと、次に狙われるは二十世紀の世界戦争の反省から生まれた日本国憲法第九条である。この砦が最後になった。日本人よ、目覚めて死守せよ。私はたんなる護憲主義者ではない、環境権をもっと分りやすく完全なものにする創憲主義者だが、この第九条は死守する。集団的自衛権という低い次元のために、高い価値ある第九条をほごにしてはならない。ここが踏んばりどころである。
 (北海道新聞 立待岬 平成16年3月)


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