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コラムあれこれ

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不眠の闇、或は存在と記憶


 生きることが難しいのではない。誰を真似て生きるかその対象を決めることが簡単でないだけで、1953年5月10日、わたしは杉並区東田町の従姉の家の一室で、朝から夜中まで飽きもせず食事のほかは本を読むか物思いに耽っていた。具体的に言うなら、ジュリアン・ソレルにしようか、ラスコオリニコフにしようか、それともレルモントフのぺチョウリンがいいか……翌日退屈な講義の後友人に昨日一日の出来事を喋った。一笑に附され、「かりにジュリアンを真似るとして」とかれは言う、「どこにレナール夫人がいる。マチルド嬢にいたっては今の日本じゃ無理というもの……」午後かれと道玄坂を下って渋谷駅の近くの本屋へ寄った。三島由紀夫の『仮面の告白』が平積みになって初夏の日差しを浴びていた。本多秋五が快作と称した評判の小説で、それを買うと、また三島かとかれは呟く。喫茶店で珈琲を呑んだ。
 あれから三十年経ち今回必要あって再び三島由紀夫の『獅子』と『仮面の告白』を読むが当時の瑞々しい感動は甦ってこない。歳を取るとはそういうことか、あの頃読めなかったことが読みとれたのに。寝返りを打つと漆黒の闇の果ての、その又果ての地平線から忽然と甦ったのが東田町の従姉の家の一室の、読書していた昔のわたしの姿と、道玄坂を歩いていた友人との二人の姿だが、その前後の記憶がしかしいつまでも思い出せぬまま、この二つのわたしの姿は闇のスクリーンに暫く映っていた。過去は無意識の曳き出しのなかにあるらしいが、自在に曳き出せないから、こうして歴史はいつも空白を作る。ところどころ不明な自分史を今の視点で捉えると、二十代の自己像は一応過不足なく揃うが、しかしこうだろうと見当をつけて補った部分の自分の姿に馴染めず凝視めている悔恨に追い駆けられる。
 記憶は眠っている女のようだ。眠っている間は所有していても、しかし目覚めると女は衣服を纏って帰っていく。記憶も何時までも鮮やかに思い出されているとは限らない。記憶の核も、ああ大変、寝すごしたわと慌てて帰っていく女のように消えてしまう。体験も、甦った過去の鮮明な追体験も束の間のことで、気付くとわたしはいつも不眠の闇に放り出されているのである。
 (1988年8月 タウン誌「街」No.312)


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