内と外と |
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娘が幼い頃、私は殆ど収入がなく、妻の働きに助けられていた。その頃、妻と娘との三人暮らしで、ある人の離れを借りていた。 毎日、妻は、徒歩で十四、五分くらいのところに住んでいる私の両親の処へ娘を背負って預けにいった。妻は中学校の音楽教師で、そこからまっすぐ学校へ行った。 一人になると私は少しでも収入を得ようと人形の下絵を描いた。いくらにもならない仕事であった。きちんとしたところに勤めたかったが、右足が大腿部から義足なので、雇い主は二の足を踏むようだ。 妻が学校から戻ってくる頃になると、今度は私が両親の家へ娘を連れにいき、妻が戻ってくる道を娘と一緒に電停近くまで迎えに行った。 その頃は父は何をやってもうまくいかず、まもなく私が育った家屋敷は人手に渡ろうとしていた。そんなことから母はいつも暗い顔をしていたが、それでも孫を見るときだけは笑いを作って、また、明日ね、と息子と帰っていく孫にいった。そして、お父さんは足が不自由だから、途中で、おんぶといわないんですよ、と息子への労わりも忘れなかった。 娘は、わかったというふうに頷くが、少し歩くと、おんぶ、といって立ちどまった。まだ娘は父が義足だと知らないのである。私はしゃがめないから背負うことができない。それで頭上高く娘を持ち上げて肩車をした。目の位置が急に高くなると、娘は頭上ではしゃぎ、こちらに向ってくる妻を見つけると、ああ、ママだ、と言った。妻も娘に気付くと、夕日を背に手を振って駆けて来た。 その娘も今では二児の母である。二人とも男の児で、上が六歳、下は十ヶ月で、上の孫は近頃知識を身につけてきた。いずれその知識から彼はどんな精神を受け継ぐのだろう。 六歳の頃の私といえば、右足を大腿部から切断する一年前で、いつまた結核菌が新しい骨を蝕むかわからなかった。暫くなんともない日が続いたあと、右膝が病む前ぶれのような鈍痛がしのび寄ってくる。子供なので遊びに熱中していたが、その鈍痛の間隔がせばまると、もう近所の子供たちと遊んでいられなかった。家に帰るしかない。玄関の戸をあけて式台に上がったあと、這うようにして居間へいった。すでに右足は痛くてつけなかった。 母は私に目を据えると、悲しそうな顔をした。今度、足が病んだら切断しかないと、母は主治医に言われていたようだった。 「どうなの、がまんできるの」 私は母の言葉に何も答えず、畳に寝転んだ。もう、我慢できそうになかった。 「お医者さんがいったでしょ。足が痛くなくても安静にしていなさいって……」 母は私の右膝に手をおいた。水仕事をしていた母の手が快かった。 孫を見る度に私は自分の幼い頃を思い出すが、二輪車を巧みに操るようになると、上の孫は、そういう自分が自慢したくて、外へ行こうといった。 すると横合いから娘が、 「たったいま、おじいちゃん汽車で着いたばかりでしょう。少し休んでからになさい」と注意した。 しかし、孫は、じっとしていられず目配せした。私は娘を制して孫のあとからついて市営住宅の中庭へ行った。 この前来たときは二輪車の後部に小さな補助車が付いていた。今はその支えを外して、孫は二輪車を自由に乗り廻していた。 手をたたいて、 「うまいね」 と褒めると、彼は満足して、また庭を一周してみせた。 上の孫はまだ祖父が義足だとわかっていない。それともすでに知っていて、問いただすのが悪いと思っているのだろうか。ともかく一度も彼は、私の右足のことを聞いたことがない。 娘が私の義足を知ったのは、五歳くらいのときで、それ以前も父は片方しか足がないと感じていても、はっきり意識のなかで自覚してなかったようだった。 たまたま私は風呂に入っていた。入浴のときは居間に義足を脱いでいく。その頃、古い家を手にいれて両親も一緒に暮らしていた。娘は祖父母の部屋から出てきて、義足の前に坐っていた。妻は台所で夕食の支度をしていた。風呂から上がった私はバスタオルを巻いて、けんけんで居間へいった。娘は目に涙を一杯ためて義足を撫でていた。 「どうしたんだ……」 と訊ねても、娘は声を殺して泣いているだけだった。 祖父母に叱られて居間へ来たとは考えられない。誰もいない居間の畳に、ぽつんと投げだされているむきだしの義足を見て、このとき初めて娘は父のすべてを知ったのだろう。 (つづく) |