内と外と

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内と外と (2) 

 義足を操って歩けるようになった最初のお盆の日、弟たちと一緒に母に連れられて、義足を誂えてくれた祖父の家へ行った。
 まだ太平洋戦争は始まっていなかった。祖父は杖なしで歩けるようになった孫を見て、嬉しそうな顔をし、
「明かりを取りに行こう」
 と言った。
 祖父は町工場の経営者で、祖父の住居から寺までそれほど遠くはなく、義足の私でも歩いていけた。
 私も祖父も提灯を下げていた。祖父は訪れた寺の檀家で、世話役をしていた。寺の住職からじかに提灯の蝋燭に燈明をいただくと、今きた道を私も祖父も火が消えないように引き返した。
 玄関の前で、家紋のはいった大きな提灯に、祖父は自分の提灯の火をうつした。私の提灯の明かりは、仏壇の前の灯篭に移すことになっていた。
 祖父と一緒に仏間へ行った。祖父の指示に従って提灯を少しずつたたみ、蝋燭を取り出した。ここまでうまくいったが、仏壇の前の灯篭に明かりを移すとき、私は畳のへりに躓いてひっくり返り、大事な火を消してしまった。外で転んだことがないのに、義足が畳のへりにひっかかっただけで、身体のバランスが崩れ、転倒したのである。
 私は大変なことになったと思った。祖父からお盆の話はよく聞かされていた。年に一度先祖の霊は、遠くから自分の生まれた家へ戻ってくる。それで子孫はその霊が迷わず戻ってくるように篝火を焚いて迎えなければならない。その大切な明かりを私は不注意から消してしまったのである。
 玄関まで来ていた霊が、私の失敗のために、家のなかへ入れなかったらどうなるのだろう。
 怖れと情けない気持ちでいると、祖父は怪我はなかったかと、燈明をあやまって消したことより私の転倒を気遣っていた。
 起き上がって、何ともないといったあとで、燈明を消したことを謝ると、祖父は笑いながら、「玄関の提灯から、明かりを取ってくればすむことだ」と言った。
 言われたとおりに、玄関の提灯の明かりを取りにいき、それを仏間の灯篭に移した。今度はうまくいき、仏壇の前も仏間全体も、明るく輝いて美しく見えた。
 幼年期の記憶にあるのは、右足の痛みや、いつも悲しそうに私を見ていた母の顔だけではなかった。もう一つ忘れられないのは、義足を誂えてくれた母方のその祖父で、彼はときどき娘である私の母を訪ねては、幾ばくかの金を置いていった。
 寡黙な人であった。孫ができたいまの私には、そのときの祖父の寡黙さがよく判る。痩せ衰えている孫も可哀相だが、それよりも、そういう子どもを抱えて苦慮している娘のほうがいっそう不憫でならなかったようだったらしい。さらに私の母は、幼くして実母を失い、義母との間に、いやな思い出もあったようだった。といって祖父に何ができるかというと、何もできない。せいぜい娘に、無言で、孫の治療費や、小遣いを渡して帰るしかなかなかった。
 それだけに孫の私が義足を付けて、なんとか歩けるようになると、祖父は、嬉しくて、燈明を取りに行こうと言ったのだろう。

 この頃、私は、とみに障害者とは何だろうかと考えるようになった。歳を取ったせいかもしれない。
 永いこと私は、人は死に向って歳を取ると思ってきたが、永生きする時代になったせいか、人は死ぬ前に障害者になるらしく、使い古した車の部品を取り換えるように、血管がつまると一部を切ってバイパスで繋いだり、胃にポリープができると胃を切除したりするが、そういう障害者と私とは同じではない。老いて障害者になるのは、やはり、一貫した人生のうちである。
 私の場合はそうではない。生まれたときは健全だったが、最初の誕生日がすぎると、突然右膝が結核菌に冒され、助かるには右足の切断しかなかった。
 それは外からきたのだった。それでときどき考えるのは、最初の健全な誕生とは何だったのかということだった。あれは何かの間違いということなのか……
 まだ若いとき、ある人が私に、こう言ったことがある。
「……すると君は、義足なのか。わたしは、君は、右足が曲がらないだけかと思っていた。まさか、足が片方しかないとは知らなかった。そうすると、小さいときから、義足なんだね。それは君、大変なことだよ。子供の頃から、君はずっと、わたしなんかには判らない、外を歩いてきた人なんだね」
 このときの彼の、外を歩いてきた人なんだね、といった言葉が、私の心にすとんと落ちた。
 しかしまた、私はこれとはまったく逆の思い出もあった。
 今ではもう祭りが来ても、神社の鳥居の前に、藁蓙を敷いてその上に坐って、物乞いをしている障害者の乞食はいないが、私の子供の頃はいた。
 小学校五年生のとき、私はその障害のある乞食の一団を鳥居の前に見て、大変な衝撃を受けた。
 そのなかには幼児もいたが、私の注意を惹いたのは、私よりいくらか年上の右足のない若者の姿だった。
 私は義足を付けてからは、人前で、義足を脱いだことはなかったが、その青年はあるがままの姿を晒していた。悪びれた顔もしていなかった。人が通ると、顔を挙げ、目を据えて、目の前の空のブリキ缶にお金をいれてくれることを無言のうちに望んでいるようだった。
 私と彼との違いはどこにあるのだろう。義足を付けているか、そうでないだけであった。私は彼らのように、自分の欠陥を晒して生きることはできなかった。
 彼らを見たとき私は、自分を偽って生きていると思った。私も鳥居の前の青年のように右足が大腿部からないのに、義足を付けて、あるような振りをしていたからだった。
 夕方になると、その一団の乞食たちは、神社の裏へいった。私は好奇心から後をつけた。神社の裏には大木があった。欅の木らしかった。その陰にかくれて、私は彼らの姿を見ていた。それぞれの空き缶の金を汚れた手拭いの上にあけると、片腕の、年嵩の男が、その金を数えて四等分した。
 一銭銅貨が多かった。なかに、数枚壱円紙幣もあった。青年も入れて大人四人いる。二人の幼児は視力の殆ど利かない夫婦の子どもたちであるらしかった。その夫婦は四等分した半分を貰った。そして残りの半分を片腕の男と、片足の青年とで分けた。
 彼らは同じ処に住んでいるらしく、片足の男は、手製の松葉杖をついて、みんなと一緒に、神社の裏の細い道を林の方へ消えていった。その後姿は、お前もわれわれの仲間のくせに、義足なんか付けたりして、と非難しているように映った。
 私はこれまで障害のある人たちと過ごしたことも、一緒に話し合ったこともなかった。それでいて一頃、神経症が重くなって苦しんでいたとき、そういう経験のある人や、現に今、その渦中に在る人を探して会に行ったものだった。
 病気は仲間を求めるが、こと障害者となると、私は彼らの仲間に入ることを嫌った。彼らと異うと思いたかった。そのために義足を付け、そのために本物の足と変わらないような歩き方を工夫し、恰も両足があるかのような振りをしてきたのだった。
 そんなとき、たまさか、ある人から、
「……君はずっと、わたしなんかには判らない、外を歩いてきた人なんだね」
 と言われたのである。
 私は心が見透かされたと思い、この人の言葉が、このとき、私の心にすとんと落ちたのは、これまでの私の、じつに悲しくて滑稽な、障害者でありながらそうでない振りをしてきた心の葛藤や苦慮を言い当ててくれた言葉と受けとったからである。
 しかし、彼は、右足の切断という現実や、それ故の私の不自由な生きざまを言ったにすぎなかったようだった。
(つづく)


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