随筆あれこれ

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仏壇を焚く(1)

 言われたとおり仏壇に灯明をあげて坐ると、持病のリュウマチに悩まされている祖母は、その手の甲の痛みをさすりながら、なかば恨めしげな、なかば諦めたような表情で、倒産をかさねてきたわが家に、こうも立派で大きな仏壇があるのは、皮肉なことだねえといった。それは仏事に関する物はいっさい差し押さえられないことをいっているのだった。
 私が子どもの頃育った家は広い庭はあったが、建坪三十五の家屋で、その仏壇は大きすぎた。祖父母が寝起きしていた奥座敷に床の間とならんでふだんは黒い扉が閉じられたままひかえていた。祖母は仏壇を見るたびに、失ったものを惜しんでいるふうであった。
 お盆になると、納戸から仏壇を飾る仏具一式が出され、仏事に必要な家紋のはいった重箱や黒塗りのお膳も奥座敷の隅にいつでも使えるようにきちんと重ねられた。その日は、本家の墓参りと称して遠くから祖父の弟や妹、市内に住んでいる父の弟や姉や妹たちが来た。夕方になると玄関の前の、名入りの提灯に明かりが灯されるが、一度その仏壇に入り、そこから出て遠くへ旅立った先祖の霊が迷わず再びもどってこられるための、それは目印であるらしかった。
 この仏壇は私の知る限り父が育った七飯の別荘の仏間に永いことあった。しかし、その最後の砦も差し押さえられると、金目のものはいっさい持ちさられ、仏壇や仏具や仏事に必要な食器や黒塗りのお膳だけ残り、それをかかえて昭和のはじめ祖父母は函館の時任町の、友人の借家へ移ってきた。私はそこで生まれた。
 父が育った七飯の別荘は、大きな屋敷で、庭には池が二つある。大きいほうの池の中央には島があって、そこへいくのにボートを使った。父は子どもの頃よくそのボートで遊んだといった。庭の周囲は鬱蒼たる樹木で、夜になるとまるで森の中にいるようだったともいい、そういう屋敷にこそ相応しい両開きの江戸仏壇であった。
 私の曽祖父は近江のひとで、造り酒屋の二男だったが、三十歳のとき、箱館(函館)へ来て洋品雑貨の商売をはじめた。これが成功して、地蔵町(今の大手町)に店を構え、七飯に別荘を建て、江戸の職人に作らせたという私で四代目の江戸仏壇をその七飯の別荘に地蔵町の店から運ばせたようだった。何度も倒産して父の代には良い物はなにひとつないが、この立派な仏壇だけは誉めないひとはいない。作りが凄いというのである。どう凄いのか判らないが、内部の汚れを取ってもらおうと仏具店に見積もらせたら、百万はかかるといわれて止めにしたことがある。今作らせるとなるとかなりの値段のものらしいが、先祖伝来のこの仏壇はやがて私の代で葬る運命にあったようだった。
 永年住んでいた時任町の家は借家だったが後に父はその土地と家屋を買い、長男である私は子どもの頃から右足を結核性関節炎で失っていたからこの障害児の息子のための住処として土地も家屋も私名義にしてくれた。ここまではいいのだが、その父も戦後サラリーマンをやめて商売に手を出したために負債をかかえ、その家も土地の人手に渡った。私は結婚して娘が一人いた。しばらくの間、私たち夫婦と両親は別れて暮らし、仏壇は、あるひとにあずかった。数年たってこんどは私と妻の働きで、同じ時任町界隈でも人見町に近いところに家をみつけそこに移った。両親も仏壇も再び一緒になった。
 家は妻が教員をしていたから学校から金を借りて買ったが、土地は別で、地主は三十年以上かさぬと、いくら頼んでも頑なに言いはり、争うのもいやで、一九九五年の六月、三十年住んだ妻名義の家をこわすことにした。ここは平屋で建坪四十五もあったから、仏壇の置き場に困らなかったが、老後は夫婦でマンションに住むことにしたため、とてもその巨大な仏壇は持っていくことができず、なんとかせねばならぬ時が迫っていたのだった。
 しかし、いくら父の死後その仏壇を受け継いで守ってきたとはいえ、私の一存でどうにでもなるものではなかった。ガンで胃を取ったあと静養もかねて温泉のある老人ホームに入居している母に先ず相談せねばならなかった。母はかんたんに、お前に任せるといった。私には弟二人いる。彼らのどちらかが仏壇を守るならそうして欲しいというと二人とも家は狭いから要らぬという。父の妹が二人まだ健在であったから、東京と北見にいるそれぞれの叔母に、これこれしかじかで先祖伝来の仏壇を始末せねばならなくなったが、どうしたものだろうと手紙を書くと、折り返し返事が来た。その仏壇は七飯の別荘にあったとき朝夕拝んだり、その前で叱られたりした思い出深いものだが、命運が来たのだろう。自分たちもその仏壇の供養にお金を包むから、私に立派に仏壇の最期を見届けて欲しいというのである。
 私の家は門徒宗である。月に一度、十年まえに肺ガンで死んだ父の命日に西別院から坊さんがさがる。その若い坊さんに、事情を話して、仏壇を解体するしかないが、どういう供養の仕方があるのか相談した。彼はこと細かに教え、私がお経をあげに参りましょうといった。供養は三日あとと決めた。その日仏壇の前に座った のは母と妻と私の三人で、坊さんが帰ったあと、仏壇の前に三人揃って自動シャッターで写真を撮った。この写真を二人の叔母に送った。仏壇を焚くひとが取りにくるまで三、四日あった。(続く)
     〈黄昏転居記より〉

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