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随筆あれこれ

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老いと童話

 (1)

 悲哀は永い一瞬である、といったのはオスカー・ワイルドだ。悲哀のさなかにいるとき、それは一瞬どころか、いつ終わるかわからない無限の時だったろう。じっさいワイルドはレディング監獄でその永い悲哀を味わった。しかしそこから出ると、どんなに永かった悲哀も一つの比喩に過ぎないのである。
 青春は過ぎさる。働きざかりの壮年期もまた過ぎさる。かくして青春も、壮年期も、どんなに永い悲哀も一瞬の出来事でしかないように、一つの比喩、一つの伝説と化すのだ。
 しかし老いは異なる。老いは過ぎさらない。六十七歳になって初めて私は老いとは何であるかを知ったのだ。老いとは過ぎさらずに死ぬまでつづく永い現実なのである。
 人は生まれると同時に夢を見、死ぬすこしまえでその夢から覚めると岡倉天心はいったが、これは正しくない。夢から覚めるのは、もう若くないと悟った老いの手まえであって、老いとは、夢の何たるかを知る覚めた時間なのである。プルーストは『失われた時を求めて』の最終章『見出された時』のなかで、その、夢から覚めた老いを書いている。ゲルマント大公夫人の午後のパーティーに招待されたマルセルがそこで見たものは、かつての溌剌とした若かった頃のひとたちではない。もうそこには彼らは存在せず、時の彼方に永遠に消されてしまったのだ。そこにいる老いたひとたちは、女は厚化粧し、男は化粧も着飾る気力もない。それで誰が誰なのかわからないのであった。あるひとは病み、あるひとは再婚して、昔の仲間の地図が書きかえられているのである。
 それなら老いはまったく空しい存在なのか。マルセルはゲルマント大公夫人邸の中庭の、不揃いな敷石に跪いて、「失われた」時を見出すのであった。かつて紅茶にひたしたマドレエヌがとりもった過去への僥倖がその不揃いな敷石からも沸々と湧いてきたのであった。それは過ぎさった象徴(人生形成の最たるもの、友愛・恋愛・結婚・挫折といったもの)であり、老いとは再びその過去を生きる時間であった。時の彼方に永遠に消えさった青春を、壮年期を、取りもどして、想念のなかでもう一度かくじつに生きること、これが老いであり、そしてこれ以上の充ち足りた時間はほかにあるだろうか……。
 プルーストが私に暗示したのは、そうした時は老人になって初めて可能だということだった。バルザックは希望は過去にしかないといったが、これはプルーストの「見出された」時と符合する。私の言葉でいえば、老いとはようやく見つけた「自分自身」への道なのである。
 ガン告知を受けたあと、私は、それを忘れるために過去の希望に向かって、彼方に消えた時の回収をこれまで以上に熱心に始めた。そのために必要なものは何かといえば、四百字詰の原稿用紙、モンブランの太い万年筆、友人から贈られた飾りの彫ってあるクリスタルのグラスに注いだ一合の牛乳、あとは良質の、想像力を刺激するチョコレートの一かけらである。これさえあれば深夜の闇へ漕ぎだすことができる。
 かつて私にこんなふうにして深夜の闇に旅立ったことがあるが、今回はいささか事情も様子も異なる。スタンドの明かりが零れている白い紙の彼方に、永らく這入ったことのない蔵の中の埃をかぶった古い日記を探すように、その過ぎさった私の少年時代を自分自身のために思いだそうとしているのではなかった。自分のための物語として、『少年の日に』は執筆中だが、その他に、その白い紙の向こうに、私の少年時代に耳を傾けている二人の孫がおり、私はかれらに回収した過去を語りたいのであった。その白い紙を凝っと見詰めていると、いずれも男の子の十一歳と五歳の孫はこういった。
「コップのなかの白いものは牛乳でしょう。その手前の黒いかけらは何?」
「チョコレートのかけらだよ」
「牛乳はどうするの。チョコレートのかけらはどうするの」
 孫は交互にいった。
「のどが渇いたら牛乳をのむのさ。チョコレートはね、ものを考えて疲れてきたら食べるんだよ。ふしぎに疲れがとれていい考えが浮かぶ……」
「白い紙に字が蟻さんみたいに並んでいるけど、何か書いてあるの?」
「蟻は動くけど、文字は動かないだろう」
 するといつもの大きな瞳にキラキラ輝く自信に満ちた光を集めて五歳の孫はこういったのであった。
「おじいちゃんの字、おかあさんよりへたで、読みづらくて、蟻さんが疲れて、眠っているように見えたんだよ」
 いい終わると彼は同意を求めるように兄を凝視めたが、十一歳の兄は頷けば祖父の心を傷つけるのではないかと、弟の顔を見、それから私の顔を見て、困ったように笑ってみせたのであった。(続く)
〈黄昏転居記より〉



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