随筆あれこれ

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下北へ行く


 初めて下北へいった。フェリーもはじめて乗った。下北へいってびっくりしたのは、そこの街並が、私が住んでいる函館から近い下海岸に似ていることだ。
 車で大間を案内してくれた大見さんは、「函館と大間とは古いつきあいなんですね」という。
 まさにその言葉どおりで、昔、大間から沢山の住民が海を渡って道南の一角、下海岸、戸井町周辺に住みつき、このへん一帯を開拓している。
 大見さんはさらにいう。
「下北は、津軽とは陸続きで、同じ青森県に属するのに、親しくないんですね。海を渡って移住するくらいですから北海道の人とは、肌が合うんでしょう。下海岸や戸井町にも、大間は親戚が多いんですよ」
 日本人の流れというのを丹念に調べてみれば、何か面白い結果が出るかもしれないと思った。町や村に点在する個々の文化を日本文化という総称で明治以後統一されたが、まだそれぞれの郷土文化はしぶとく生きていると思った。  
 大見さんの車で、本州最北大間崎にくると、目の前に、大間へ着いたきのう、大見さんのモーターボートで案内された離れ小島が見えた。大見さんは、ここから橋を架けると、観光資源として離れ小島は生きると思っているといった。
 その離れ小島は大間崎から距離にすればそんなにない。数百米くらいのものだろう。しかし、船で行くということになれば厄介である。一箇所だけ流れの早いところがある。津軽海峡の一部分なのだろう。そこは潮の流れが渦をなして、そこへはまれば帆船なら立往生するらしい。昔、帆船が一日中立往生していたらしかった。モーターボートでそこをよぎったが、振動がすごかった。そこをかわすと、あとはおだやかな海である。
 私が大見さんに大間へ呼ばれたのは、じつはその離れ小島が、はたして啄木の歌、
 東海の小島の磯の
 白砂に われ泣き濡れて 
 蟹と戯むる
 の、詠んだ場所か、どうか、一つ判断してくれ、ということだった。
 私は啄木の研究家でもないし、郷土史の専門家でもない。そういうことは苦手なのだが、「街」というタウン誌を出しているから、もっと一般的な観光にまつわる話でもききたいのだろうと思って引き受け、この問題についてはくわしい佐藤鉄城氏をともなって出掛けた。
 ゆうべは、大間の名士たちが、三、四十人集まって、最初に佐藤鉄城氏の、大間の離れ小島は、啄木の、東海の、の歌にぴったりしており、啄木が離れ小島をイメージして詠んだ可能性は大きいという話をした。その裏付けとして、氏は、昭和四十年九月二十六日の朝日函館宣伝版に、いまは故人となっているが、氏の友人中村純三が、自分の説を土台にして書いたという一文があるといって読んできかせた。
 それによると、大正の末、函館の船が大間海岸で遭難し、七名の乗組員のうち四名が死亡。その霊を弔うために、調査もかねて出掛けた有田一等航海士が、たまたま門徒宗らしい寺へ行ったとき、有田一等航海士が函館の人物と判り、函館の話が出ると、その寺の住職が、石川啄木は、しばらく大間にいたことがある、といったという。有田氏と佐藤氏は友人らしく、他日その話を聞いた佐藤氏は、それじゃ啄木は離れ小島を見たに違いない。そうなれば、東海の、は大間の離れ小島をイメージして詠んだものという佐藤鉄城氏の説の可能性は大きいと、中村純三も魅力ある新設として紹介していた。
 私はばくぜんと、東海の、は、函館の大森浜を詠んだものだろうかくらいにしか思っていなかったから、佐藤氏の話はためになった。それにこの話を佐藤氏にきく前に、私も当の佐藤氏も、また米沢さんという大間の方も一緒に、大見さんのモーターボートで、離れ小島を見ていた。
 いまは離れ小島は無人で、無人の燈台があるだけだった。岩のけわしい島で、かもめが多かった。
 白砂は一箇所にあった。そこに日差しが当たって綺麗に見えた。その白砂には、小さな蟹がいっぱいいるそうだ。いかにも啄木の、東海の、の歌にぴったりな場所であっただけに、その日の夜の佐藤氏の話に説得された。

   次に私に何か話せということだった。私は啄木の生まれた時代、育った時代について話した。
 啄木は十九世紀と二十世紀にまたがっていた。それで十九世紀と二十世紀の話をした。十九世紀はドストエフスキーに代表される。彼の小説に「罪と罰」という犯罪小説がある。そのなかにラスコオリニコフという元大学生がいて、彼は金貸しの老婆を殺す。殺す前も殺した後も、ラスコオリニコフはものすごく悩む。つまり十九世紀とは、ひとりの人間を殺すのにも悩むのである。それも異常なくらい。ところが二十世紀になると、がらりと変り、大量の殺人がバッコする。大きな戦争が二つあった。第一次と第二次大戦である。これでどれくらいの人間が殺されたか判らない。政治的殺人としてスターリンの粛清、ヒトラーのユダヤ人弾圧がある。ここでも大量の人間が虐殺された。しかもなんの躊躇も反省もなく。
 啄木はこの二つの世代の狭間で苦悩した詩人である。啄木の抒情が胸うつのはそこにある。
 私はそういう話をして、一応責任を果たしたが、もう一つ、私も今回呼ばれたのは、大間の離れ小島が、はたして啄木の、東海の、の歌の場所か、私なりの感想をいうためであった。感想といっても無責任なことがいえないのだが、地元の人が、そうだと信じればそうなるのではないかといった。
 東海の、は小樽日報時代の同僚の野口雨情によると、「小樽市花園町の間借り時代に詠んでいる」となるが、ほぼ定説となっているのは、明治41年春、新詩社(東京・与謝野鉄幹主宰)の歌会で詠んだものとされている。
 東海が、どこであろうが、それは啄木の観念の世界だろう。ということは、大間の離れ小島ということも十分に考えられるのである。かりに啄木が大間に住んだことがなくても、行ったことがあるかもしれない。函館にいたとき、彼は友人の宮崎郁雨の援助を受けていた。郁雨の実家は味噌醤油の問屋で、その船はしばしば大間へいっていた。啄木も乗船したかもしれない。そして一度くらいは、その船の上から、大間の離れ小島を眺めたとも考えられる。
 一つの歌から、作者の行動の軌跡を辿るのも楽しいが、一つの歌がどういう読まれ方をするかという方がもっと重要で、大間の方が、啄木の、東海の、の歌を、離れ小島を詠んだものと思えば、それはそこで十分に生きるのである。文学の精神を受けつぐということはそういうことである。
 そんなふうに私は求められた感想について、結論をだしたが、何人かの人は同意されたようであった。

   佐藤氏と私の話の後に、地元の人たちを囲んで宴会が始まったが、このときたまたま、私の前に坊さんが坐った。こもれびの里の、普賢院の住職である。「明日訪ねます」と約束した。  大見さんに、大間崎の後、そこへやって貰った。私が訪ねたときはまだオープン前であった。あと二、三日で開院になるとのことで、その準備に忙しそうだった。
 たまたま戸井町からも、見学にきていた人たちとぶつかった。学校の先生方ということだった。
 周囲は鬱蒼とした森で、その一角に普賢院はある。函館には、もうこうした尊厳さはない。普賢とは、普賢菩薩のことで、徳と智で物事を円満にはかったことから普賢という言葉を貰った。そして常時釈迦の脇につかえていた。
 入口から御堂へいくまでの間にいたこの修練道場があった。特別の修行期間を除いて口寄せを行っている。
 普賢院から少し離れたところで原発の工事をやっている。原発反対といってみても、現代人は危険と共存して生きるしかない。となれば、当然、原発が安全に運行され、事故が起こらないように、人間は注意し、注意させ、そのための祈願もかかせない。
 当院の主山は、当院は信仰の道場であり、憩いの場であり、そしてまた、原発の事故がないように祈願し、世界の平和はいかにして守るか、仏法と共に考える場でもあるという。
 帰りに普賢院特製のお願い桴を貰った。下北の天然ひばである。

 下北は初めての旅だが、函館からこんなに近いところに、まだ大自然の残っている地方があることがわかり、いかに観光開発とこの大自然とをいかに共存させるか、また、現代の文明と下北の大自然とをいかに共存させるか、離れ小島に、啄木の、東海の、の歌碑を作りながら、大間の人たちに真剣に考えてほしいと思った。
 現在、私は、大見さんからいただいた、ひばの枕を愛用し、ひばにそそぐ風の歌をききながら、眠りを楽しんでいる。
 (タウン誌「街」1991年9月 No349)


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