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随筆あれこれ

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トイレ考


 二人が結婚する上で互いに最良の方法だと納得して私は上京を決めたが、片足義足の私を東京の大学へ送り出すとき、青函連絡船の送迎デッキの上で突然富美子は、くるりと背をむけて嗚咽した。いくら学生生活とはいえ、まだ復興なかばの戦後の東京での生活は並のものではなく、その苦労を自分も押しつけたという意味があの嗚咽にこめられていた。前に書いた『天使の微笑』ではあっさり片付けたが、いよいよ上京が現実のものになったとき、私は富美子に東京へ行くことでの不安の原因を余りにもあらわに話しすぎたのであった。
 私の天敵はトイレであった。子供の頃からトイレで苦労した。家に居るときはいいとして、小学校生活では、小便はよしとしても大便となると、とてもあの汚れた小学校のトイレで用は足せない。それで私は担任に断りもなしに急いで家へ帰り、母にトイレを綺麗にして貰った。
   母は心得ているから両手を床についてもいいように綺麗にしてくれた。私は義足を脱いで用を足し、今頃は担任が私の不在に気づいて方々捜しているのではないかと思った。息子が無断で学校を抜け出して来た事を知っている母は、息子が用をすませると急いで学校へ行った。もうその日私は学校へ戻る気がしなくて、そのまま家にいた。
 昭和十年前後の頃、坐ってトイレの出来る水洗だったら義足を脱がなくても、ズボンを下げただけで用を足せるから、無断で学校を抜け出さなくてもよかった。
 私が東京へ行くと決まったのは昭和26年だから、東京には、捜せば坐ったまま用の足せるトイレがあるだろうと信じていた。富美子は、なかったらどうするの、と言った。そのときはそのときで何か考えるというと、あなたにはそういう余計な悩みもあるなんて知らなかったと、そのときはそれで終ったが、甲板の上の私の姿を見て、その問題が並でない大変な苦慮として東京にいる間かかえ続け、どこへ行くにも、あらかじめあの人はトイレの位置を確認しなければならないのだろうと思ったようだった。最初の手紙で、長い距離と共に、あなたのもう一つの苦労はトイレなのね、そういうことを考えると、心配で夜も眠られないと書いてよこした。
 私が洋式の、つまり坐って用が足せるトイレを一番最初に知ったのは、アメリカ軍が函館に駐留して間もなくの頃だった。日魯漁業の建物がアメリカ軍の食堂施設として使われていたとき、日本式の蹲踞して使用していたトイレが全部坐る洋式に変り、友人の案内で、初めて義足の私に優しいそれを使わせて貰ったのだった。しかし駐留軍が引き揚げるとその洋式は元のしゃがんで用を足す和式に取り換えられ、私をがっかりさせた。
 その頃はまだ富美子の存在を知らなかったから、私がよく訪ねていっていた函館の護国神社の宮司の、しかも左翼思想のよき理解者でもあった彼に話すと、お前は毛唐の便器がそんなにも有りがたいのか、あんな下品なものはない、あれは自分のものが水の上に、ぷあぷあ浮いている、そこへいくと日本の、とくに上流階級のトイレは最高の芸術品だといった。臭いは勿論、自分がしたものの音もしないように便器の中に鳥の羽を交互において、音もなく秘やかに闇の中に落ちて行くようになっている。うちの神社の便所もそれに近い。
 さらに彼は、西鶴に「色道大鑑」というのがあり、その中にもトイレの話が出てくるが、客に不快な思いをさせないように、不浄のことはみな符丁になっているといった。
 たしかに日本文化はトイレだけでなく行儀一つ取っても驚くほどで、おじぎの角度によっていろんな意味を持っていることに感心するが、便器の機能がいくら行儀よく深い思考があっても、合理性、優しさということではかなり劣っている。とくにいつも私が腹を立てていたのは、汽車のトイレだ。片足義足の身には助手でもいなければとても使用出来ない。 
 しかしその苦労も今は解消され、旅にも安心して出掛けられる。かつて宮司の言った芸術的純日本式のしゃがんでするトイレは少なくなった。
 東京にはデパートとかホテルとか高級な喫茶店に水洗の坐って用が出来るトイレが増えたと富美子に知らせると、よかったわね、でも函館にはまだありません、デパートでも和式です。でも函館は自宅があるから安心ね……といってきた。
 函館に水洗のトイレが出来たのはいつ頃だったろうか。小学校の時から便をがまんしたため、私は痔になった。結婚して娘が生まれた頃、ひどい出血で、一色病院に入院し、十日間も妻が付いてくれた。
  「つれづれなるままに」より
 (タウン誌「街」No.506 2004年10月)


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