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随筆あれこれ

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温泉(1)

 住みなれた家を解体して移ってきた湯の川のマンションに、温泉があるということは忘れていた。温泉は一階で、清掃などで使用できない時間帯をのぞけば、いつでも入浴できるという説明は聞いていたが、子どもの頃は別にして、大人になってから間借りしていた一時期をのぞくと他人と入浴したことはなかった。温泉があろうが無かろうが関心がなく、室内にある狭い浴室をずっと使っていた。それは、越すまえの家の湯殿の半分もない小さな浴室なので、身体を流すだけで、湯を楽しむというものではなかった。換気孔はあるが窓はなく、密閉した真四角い箱のなかにいるようで、湯つぼに浸って考えるということもできず、以前の家の窓のある湯殿をなつかしんだ。
   それなら一階に温泉があるのだからそこへ湯を楽しみにいけばいいわけだが、私にはそういう発想はなかった。右足が義足のせいだろう。室内と違って、湯道具を持って下まで降りていかねばならないから、義足は付けている。脱衣場のどこにその外した義足を置いたらいいか、考えるだけで面倒くさくなる。
 さらに、義足を外したあとの、足が片方しかない裸は醜悪だろう。それでもまだ、凝っと動かずに立ったままならいざ知らず、湯道具を持って片足でケンケンしながら浴室にはいっていく様子を想像してみるだけで、もう、私自身、そのぶざまな恰好に嫌悪し、そういう姿は人前に晒してはならないと思うのである。何より私の美意識が、そういう自分をひとに見せることは許さない。ミロのヴイーナスを私は醜悪だと思っているが、手がないからだ。ギリシャ思想が私に教えたものは、肉体はどこも破損せず完璧で、しかも美しくなければならないということだった。
 以来、私は若い女の裸か男の裸しか愛さなくなった。その頭にはいかなる邪の思考もないから、その裸は美しいのだ。私は、男女を問わずマラソンのテレビ中継を見ることが好きで、それがかかると、本も読まず外出もせずテレビの前に釘づけになる。勝負なぞ二の次で、躍動する眩しい肉体のなかに特に好きな体形を見つけるだけで昂奮さえしたものだった。
 しかし、どんなに美しい肉体も、知識や金や人生の疲れがたまると、腹が出たり、尻が俄かに大きくなったりして、均整のとれたスタイルが崩れてしまう。太ったのも醜いが、もっと醜いのは、肉がおちてたるんだ皮膚の肉体で、老醜とはよくいったものだ。
 ところで、私はそのうえに、片足がなく、そんな姿で片手に湯道具を持ち、片足でケンケンして浴室へいくのだから、これは滑稽この上もない恰好だろう。
 その私がここに移って二カ月後、温泉にはいることになったのだが、それは心変わりでもないし、居直ったのでもない。このマンションの温泉は、管理人の話だと、浴室を清掃した直後、時間的には午後の三時半だが、そのときは男の浴室には誰もはいっていないということだった。それなら一度試してみようと思い、午後の二時頃に着くように事務所の女性に車で送ってもらい、三時半まえに、妻が用意してくれた湯道具を持って下の温泉へ行った。  清掃のすぐあとだけあって脱衣所も浴室もきれいであった。そして誰もいなかった。外風呂へはいるのは三十年ぶりのことであった。大人四、五人は入浴できる湯船の縁から溢れた温泉がタイルに流れていた。窓ガラスから庭が見え、真んなかが石造りの露天風呂である。周囲には立木が植えられ、夜でも入浴できるように、明かりのつく背の高い黒い庭燈が二つ並んでいた。
 身体を洗って湯船にはいると、勢いよく湯が溢れた。すきとおった湯で、揺れが小さくなると水面をとおして底に碁盤の目のタイルが見えた。熱くもなくぬるくもなく快い湯加減で全身にえも言われぬ安らぎがしみこんでくるようだった。何も考えずに、大きなガラス窓から、私は庭の露天風呂やさらに竹で造った塀の彼方の空を仰いだ。
 室内の風呂はのぼせて長湯ができないが、温泉は広さもあり、欄間が開くので外からの爽やかな空気が流れていた。それにまた湯そのものが肌に優しかった。私は温泉に魅了され、そのうちもっとも贅沢な朝湯にはいるようになった。時間的にそのほうが好都合で、ひとに遭うこともあまりなかった。一年まえからはじめたテレビのロシア語講座が終ると湯道具を持って下へいった。先客がいることもあった。(続く)
     〈黄昏転居記より〉

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