随筆あれこれ

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五月の朝市

 海から上った生きのいいヤリイカが並んでいる。ヤリイカは煮付けもいいが、細く切って土生姜を溶いた醤油につけて食べる刺しみもうまい。刺しみは歯ざわりがよく、美味でもあり、春を感じさせる。ヤリイカは春が旬で、朝市にヤリイカが出廻る頃、地上ではようやく桜が咲き始める。函館の桜は五月上旬である。
 そこかしこで、「イカ、買ってけせ」という声が飛び交うが、少し大き目のヤリイカになると一パイ七、八百円はする。昔からみると、イカの値段も上がったものである。それでも売れゆきは上々らしい。何しろ冷凍でない、生の、それも朝方海から上ってまだ生きているイカである。
 子供の頃、朝の食卓はイカ刺しか、春にしんであったが、今はいずれも稀にしか食べない。昔は朝早くイカもにしんも売りにきたものである。今は市場へ行かねば買えない。それに最近、イカ刺しの作れない、又にしんのウロコも落せない、そんな若い母がふえたともいう。そして又、大概の家庭の朝食はパン、コーヒー、ハムエッグらしいが、それもこれも時代のせいだろう。
 そんなことを考えながら、久しぶりに朝市へ行ってみた。生きのいい、背の赤いイカは見ているだけで楽しい。子供の頃が想い出された。朝露のなかに「イガ、イガ」というおばさんの声がひびく。それで目が覚める。又そのイカ売りの声で天気が占える。よくひびけば雲一つない晴れた日である。母がイカを買いに出る。昔の女は着物を着ているから、仕事の時は襷をかける。そんな後姿で母がイカ刺しを作っている。子どもたちはそれぞれ決まった朝の掃除をする。それを済ませて顔を洗うと、まるい食卓に熱いめしと、イカ刺しが上がっている。あの味は忘れがたい。あの味はどこへいったのだろう。
   朝市を歩いて気づいたことは、軽装の旅行者の多いことで、聞くと、ホテルの朝食はつまらないから、わざわざ朝早く、朝市の食堂に、イカ刺し定食を食べにきたという。朝市の一角に食堂が並んでいる。四、五十軒あろうか。そのなかに生きのいいとれたてのヤリイカを刺しみにして食べさせる店が何軒かある。朝から混んでいた。夏になると列を作るという。米のめしに、味噌汁、イカ刺し、漬け物で1200円。永らく忘れていたイカ刺しとめしの味であったが、しかし子供の頃の味には及ばなかった。
   子供の頃食べた食べ物が何故うまいのだろうと、ヘンリー・ミラーは『北回帰線』のなかで述懐する。そして、その結論として、それは子供の頃、美しい大人の女の笑顔と一緒に食べたからだろうという。味の記憶は、味以外のもので粉飾されているのかもしれない。朝市は、戦後闇市から起こった。当時は青空市ともいったが、昭和三十年以後、青函連絡船の桟橋と、汽車の始発駅との接点の前方の現在地に落ち着いたという。
   一万坪の広さのドームのなかに店舗数が四〇〇以上ある。野菜、鮮魚、珍味加工、肉類、菓子、雑貨、果実、衣類,飲食店と、それぞれの産地から直送してきたものや、手づくりの食べ物や、その日の朝にとれた魚介類、野菜を運んで並べてあり、それぞれの出身地の訛のある言葉が、品物の紹介と一緒に乱れ飛ぶ。
   市場とは華やかなものである。そして騒々しくもあり賑やかでもあるが、しかし又妙に切ない。何故だろう。
 市が立つという言葉があるが、市の起こりは歴史的にかなり古い。それぞれの土地でとれた物をある一箇所へ持っていき、沈黙のうちに変換するというのが、そもそも市の起源のようで、どんなに市が華やかで、賑わっていても、そこには集合離散というものがある。それで切ないのかもしれない。
 朝市も昼頃になると、先ず野菜や山菜を背負ってきた老婆たちが逸早く姿を消す。続いて鮮魚屋も店を閉める。そして飲食店も昼食時が終わる午後の二時頃から、のれんをしまう。珍味加工の品物のある店やおみやげ店が一角に残るだけで、ドームのなかの殆どの店は、上から布を覆い、明りを消し、梁から吊した店名の看板だけが、仄かに読める。外が明るいだけに、市の終わったドームが暗く感じる。
 いましがたの賑わいはどこへいったのか。ずっと昔もこうだったろう。それぞれの地方の珍しいものを背負って市へ来て、品物をひろげる。眩い品物がそこに溢れる。人も集まる。しかし市が終れば、どの道にも通れる広場があるだけで、もう何もない。賑わっただけに祭の後の哀感が残る。
 どんなに文明が栄え、便利な世の中になっても、朝市にもそういった歴史的な哀感があった。

・別冊『一枚の繪』青函トンネル開通記念
「名景津軽海峡」特別寄稿(昭和六十三年七月)

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