随筆あれこれ

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本の話 「星の王子さま」


 子どもにどんな本を読ませたらよいかということを、私はよくきかれる。大概こんな風に質問する母親たちは読書をしていない。自分が本を読んでいないから子どものことが気になるのである。子どもにどんな本を……これは考えてみるとなかなか答弁に困難な質問である。というのは、それぞれ子どもたちの能力はちがうだろうし、生活環境もことなるからである。又その人の子どもがどんなことに興味があるかということを、こちらは全然知っていない。それで一層困難になる。私は必読百冊とかいう公的数的な読書方法をもっとも嫌う。本だけでも自分流に読みたいからである。といって、母親たちに、私の読書方法を言ってみてもあまり参考にならない。私は私を育てるために本を読む。それでもある会へいって執念くきかれる時、私は一つだけ作品をあげることにしている。それはサン・テグジュペリの「星の王子さま」という童話である。
 これは童話だが、大人に読ませたい本である。いや、子どもと大人と一緒になって読むと不思議な効力がある。私には小学一年生の娘がいる。彼女と一緒に私もこの本を読んだが、彼女より私の方が、はるかにこの本に感動した。小学校一年生では、まだこの本は早い。けれど効果は十分にあった。ここには子どもの心を忘れた大人の悪口がいっぱいでてくる。読み終わった次の日から、よく娘は、大人って困ると連発しているからである。
 本当に、子どもの心を忘れた大人は困る。作者のサン・テグジュペリも「かつて子どもだったことを忘れている」おとなの批判のためにこの童話を書いたのである。  これはまさに童話の傑作で、最初の書きだしからして面白くて鋭い。六つの時、作者は原始林のことを書いた本を読んでウワバミの恐ろしさを知る。それから作者はゾウをまるごとペロリとのんだウワバミの絵をかいて大人にみせる。するとおとなは、それは帽子の絵だろと言い、帽子がなんでこわいの、という。外観は帽子に似ていて帽子に見えるが、六つの男の子には、その帽子に見える絵は、じつは、ゾウをまるごとペロリとのみ、ゾウをこなしているウワバミの恐ろしい絵なのである。男の子はがっかりして今度はウワバミのなかみをかいてみせる。するとおとなの人たちは、外がわをかこうが内がわをかこうが、ウワバミの絵なんかやめにして、地理と歴史と算数と文法に精を出しなさい、という。「ぼくが六つのときに絵かきになるのを思いきったのは、そういうわけからでした」と作者はいう。おとなは、子どもの創造力を大概こんなふうにつぶしてしまう。
 画家をあきらめたサン・テグジュペリは飛行機の操縦士になる。そして世界中を飛んであるき、いろんなおとなと暮らす。けれど彼の考えは子どものころとすこしも変らない。彼はかつて自分が子どもであったことを忘れない数少ない良いおとななのである。しかも彼はおとなになっても六つのときの絵を持っており、ものわかりのよさそうなおとなに会うと、本当にものわかりがよいか、どうか知りたくて六つの時の絵をみせる。ところがその物わかりのよさそうな人の返事はいつも「そいつは、帽子だ」である。そこで彼は又がっかりして、その男が好みそうな話をする。つまり、ブリジ遊びや、ゴルフや、政治や、ネクタイの話を。するとおとなは「君はものわかりのよい人間だ」といってたいそう満足をするーこのへんなじつに鋭い眼認力である。  おとなというのは、政治の話や株の話や金の話が好きだ。だからスタンダールの「恋愛論」なぞ読んでいると嗤われる。いい歳をして、まだそんな本を読んでいるのか!こうくる。名もない三流の人間の書いた「これからの経営法」なんていう、いかがわしいしろものを読んでいた方が無難だ。なかなか君は勉強しているね、とほめられる。おとなというのは数字しか愛さない。誰かが家を作った話をするとすぐ、値段をきく。間取りや屋根の色や本が何冊あるかをきかずに、すぐ建坪いくらだとくる。それにたいして総額で三百万円だというと、うん、それじゃ、一寸良い家だと、と断定する。実際に家を見にもいかないで、値段で判断するのがおとなである。だから彼らはつねに値段の範囲から出られない。従っておとなは人間の心がものすごく広い世界であることを知らない。それは目に見えないし、値段のつけようもないからだ。
 星は何故美しいか?それにたいして星の王子さまはこういうのだ。―それはね、星の世界には目に見えない花が咲いているからです。おとなの目に見えないものを信じない。だから星の美しさも、人間の美しさも知らない。そんなおとなが多いからこの世の中は息苦しい。そんなおとなの目をひらかせるためにサン・テグジュペリはこの童話を書いたのである。子どもよりこれはおとなに読ませたい童話である。
(月刊はこだて 1966年3月 No.43)


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