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随筆あれこれ

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飛行機

 飛行機は何度乗っても馴れるということはない。乗る度に不安が募る。それなら汽車にすればいいものの便利だとか早いとかで、やはり飛行機にしてしまう。作家の深沢七郎は一度飛行機に乗ったとき、ひたすら経文を唱えて無事目的地に着くよう祈ったと言う。
 私は経文まで唱えないが、飛行中ずっと緊張のしどうしなので可なり疲れる。空を飛ぶのは便利で早いが、いつも飛行機が無事空を飛ぶとは限らない。交通機関に事故はつきもので、飛行機事故もこれまでに何度かあった。その事故に出会わないのは運の問題だろう。
 だから飛行機に乗る度ごと私は今回も運がいいようにと祈らずにいられない。私は飛行機事故にだけは遭遇したくない。これはしかし死にたくないというのと少し違う。いくら死にたくないと頑張ってみても人間は死からまぬがれないから、そんな気くばりは無駄だ。それに死神は気紛れで、いつとりつかれるか誰にも判らぬ。けれど同じ死ぬにしても飛行機事故では死にたくない。あれは原型もとどめず肉体がバラバラで首と胴体だけみつかり、あといくら探しても手足が判らぬということが普通のようだ。死後の自分のことをあれこれ考えても仕様がないが、やはり破損した肉体でなく、原型をとどめた恰好のまま私は死にたい。これは願望である。こんな願望が強いため、その反動として飛行機に乗ると極度の緊張が強いられるのかもしれぬ。
 もっとも人間の死にざまはさまざまで死体のあがらぬ死もある。函館山がいつも心配そうに凝視めている津軽海峡は潮の流れが早く複雑で、青函連絡船から飛び込むと殆ど死体は上がらぬという。死体の上がらぬ死にくらべるなら、首と胴体だけある飛行機事故の方がまだましだろうかー
 これはある船長から聞いたことだが、船からの投身自殺者は皆が皆飛び込んだ瞬間「助けて」と叫ぶそうだ。それで他殺かと思って駆けつけると自殺である。岸壁から投身する自殺者は反対に決して浮いてこないように錘を抱いて而も一言も発せず秘かに無言のまま海へ飛び込むというのである。一体この差異は何からくるのだろう。
 話が妙な方へいったが、この間私は札幌へ行くのに急いでいたため飛行機にした。函館千歳間を飛行機が飛行している時間は僅か二十分くらいのもので、普段なら忘れている時間である。それがとても永く感じられ、機体が揺れたりきしんだりすると不吉な想像が湧いて私はすっかり全身汗まみれになり五分ごと時計を見た。
 ポーに「メエルストロームの渦」という短編小説がある。難破した主人公が板切一枚で漏斗状の渦に出会い、その渦がメエルストロームの渦である。主人公はその渦に巻きこまれ渦の底に恐ろしい世界を覗き込み自分が死ぬのも、もはや時間の問題だと悟る。私も飛行機に乗ると、つまらぬ想像や不安が作る漏斗状の渦を見る。けれど「メエルストロームの渦」は遠心力で動いているので、空洞のように底の方にぽっかりと空いた死の世界に、板に乗った主人公を?み込むということはないのである。渦の中で一枚の板は下降することなく、いつまでも一定の方向に同じ運動を続けているだけで、そんな渦の原理を知ると主人公はじっと待ってさえ居れば助かることを悟り、不安からまぬがれる。「メエルストロームの渦」とは言ってみれば実際に起こる恐怖のことではなさそうだ。それは意識の世界でのみ生じることで、想像力が突然暴れだすと、もはや意志ではどうにもならぬ不安というものがあると言う事を言っているのだろう。
 飛行機が無事目的地に着けば、したがって機内での私の想像による不安もすべて徒労にすぎぬ。この間も私は可愛らしい天使のようなスチュワーデスの微笑に見送られてタラップを降りながら、二十分間不安の渦の中で戦慄していた自分を思い出し、いまいましい気持になった。実際、私の傍に坐った見知らぬ乗客は鼾をかいて熟睡していたのである。
(月刊はこだて「街」 No.186 1978年2月)


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