随筆あれこれ

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一里塚(1)

 六十五歳を越えて、住みなれた家から今はやりのマンションへ移ることは大変なことで、最大の悩みは、十代の頃から集めた本の始末である。ない金を工面して買い漁った本は一冊も失いたくなかった。
 その頃、私の心を捉えたものは、ギリシャ悲劇とフランスの詩人ボードレールの『悪の華』で、古本屋へいっては、どちらも日本で最初に翻訳されたものを探した。ギリシャ神話のほうはすぐみつかった。「世界戯曲全集」のうちの欠本で、ギリシャ悲劇との最初の出会いであった。以後私は古本屋や新刊書店を歩く度に、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスのものを漁り、さらにギリシャ悲劇の成立や評論集やギリシャ史に関する本を集めるようになった。これだけで高さ六尺幅三尺の書棚一杯になった。
 ボードレールも、大正時代、昭和の初めの『悪の華』のほん抄訳から数人のフランス文学者の『悪の華』の翻訳、ボードレール全集、さらに少しフランス語を勉強したので、原書を漁ったが、これもまたこれだけで別の書棚が一杯になった。
 散文と違って、詩の翻訳は一番最初の訳者に影響される。私が最初に『悪の華』を読んだのは、村上菊一郎のもので、この訳の調子、コトバ使いで、私のなかに翻訳におけるボードレールの『悪の華』が固定化し、以後、上田敏、堀口大学、佐藤朔、鈴木信太郎、ずっと下がって福永武彦のものを読んでも、それはすこしずつ異なるボードレールというものになった。詩の翻訳には、そういう「不安な楽しみ」があるのだった。
 私の寝室の壁の両側は書棚である。廊下の片側も本棚で、唐紙をあけると、そこは私の仕事場だが、そこにも本が溢れている。納戸の一部もまた書庫になっていて、そこには本の他に必要な雑誌や新聞やパンフレットの切り抜き帳ある。いわばこの四カ所は、いま自分がどこに居るかまったく忘れてしまう本の中の時間を生きる場所である。
 何冊本があるか数えたことはないが、これら数千冊の本は、とてもあの狭いマンションへは持っていけない。十分の一はおろか、もっと制限せねばなるまい。ほんとうに必要な本だけ持っていくことに、何日も何日も考えて、迷いに迷って腹を決めたが、あとはどうするか。図書館に寄付するか、誰かひとを呼んで好きな本をくれてやるか、それともいっそのこと古本屋へ売るか、その処理を決めることに疲れてしまい、事務所の女性を呼んで、どうしたらいいか訊くと、事務所に運んだらという。そういえば広い壁があり、そこへ書棚を並べれば半分以上の本が収納できる。さっそく彼女らに手伝ってもらって、そこへおさめることにし、あとの本は、やはりひとにくれることにした。こうして一応本の始末がついて、ほっとしていると、妻の部屋のほうから、暗渠を流れる水のようなすすり泣きが、私の寝室の唐紙をとおして聞こえてきた。
 どうしたんだと、声を掛けながら襖をあけて妻の部屋へいくと、もう日が落ちてうす暗くなっている部屋に、アルバムや、本や、書の道具や、さらに、ひとからもらった布地や洋服や、自分が買った気にいっているブラウスやスーツやコートが、畳いっぱいに氾濫していた。まだ仄かに明るい窓のほうを向いて坐っている妻は、私の掛けた声にも気付かず、背中を小さく波立たせすすり泣いていたのだった。
 私と妻は三月の末、これから移るマンションを見にいった。そこは五階の屋で眺めはよかったが、二LDKで、いかにも狭かった。せめて三LDKの広さが欲しいと思ったが、空いている三LDKは眺めがよくなかった。妻は狭くても居間から山が眺望できる五階の二LDKがいいといった。日中ずっと家にいるのは妻だから、私は妻の意見にしたがった。一応契約をすませ、四月から家賃を払い、五月の末ころ引っ越すことにした。それまでふた月ある。その二か月の間に家のなかの荷物をいっさい処分することにした。
 狭いマンションを考えると家にあるあの厖大な荷物をどう処理するか、妻は苦慮していたが、覚悟ができると、ある日私に、死のまえの一里塚と思って全部捨てるといった。
 妻は永いこと教員をしていた。専門は音楽と書である。ピアノはマンションへは運べないから、欲しいひとがいたらくれることに決めた。ピアノも金があって買ったわけではない。最初に買ったのはストップ付きのオルガンで、次にそのオルガンを下取りにしてピアノを求め、その差額を毎月給料から引いてもらい、三年くらいかかった。現役のときピアノは必要な教材だったが、退職後は楽しみに弾くための、現役のときとはまた異なった大事な楽器で、ときどき彼女は好きな歌曲を弾いて唄っていた。そのうちシャンソンなども弾きながら唄いたいともいっていた。
 それがとつぜんあきらめたのは、マンションが狭いというだけではなく、歳を取ると以前のように声も出なくなり、指も自在に動かなくなったからでもあるらしかった。それにしても永年愛してきたピアノと別れるのは辛かったのではないだろうか。在職中に集めたレコードも処分することにした。マンションではボリュームを高くして聴くわけにもいかない。さらに生活の必需品でもある居間の食卓用の丸テーブルや椅子や贅沢なソファやサイドボードまで捨てるか欲しいひとにくれるしかなかった。定年を五年のこして退職したとき買ったもので、まだまだ十分に使えるものだが、いずれも大きすぎて、これから夫婦二人で移るマンションへは運べなかった。
 ここまでは妻は思い切って腹を決めたのだろうが、ひとからもらった思い出の布地とかコートとか、さらにまた、教員時代の生徒たちと撮った写真とか、娘や孫の、これまた厖大な数の写真やアルバムや、退職したら始めようとして楽しみにしていた書の本や道具類も、一部処分せねばならないと思うと、ずっとこらえていた感情があふれてすすり泣きとなったのだろう。
 私には妻の気持が判った。物は捨てなければどんどん増えていくが、捨てるにしても、夫婦で金を出し合って買った思い出の珈琲茶碗とか、クリスタルのグラスとか、大きな西洋皿……、数えればきりがない。そういうものも処分するしかなく、そういうことはこれまで築いてきた人生の一部分を削るようなものであった。狭いマンションへ移ることにした二人の合い言葉は、これからは死に向かって生きていくのだから、なるべく身軽にしよう、であったが、じっさい、捨てる物が多くなると、淋しくなり、人生とは何だろうと考えてしまうのだ。
(続く)
     〈黄昏転居記より〉

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