犬が欲しい

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犬が欲しい (3) 

 目を見張ったのは貞子の描くヴァイオリンである。朝子は、あっと叫びそうになった。ケースの内側は赤で、そのヴァイオリンは真っ黒い色で描かれていた。なんで黒なのか。他の生徒たちはケースの中が暗い色で、ヴァイオリンは茶色か赤であった。つまり実物そのままか、それほど変化させていなかった。そのなかで、貞子のヴァイオリンは黒いのだ。形も歪んでいる。しかし、その画からは音楽が聴こえてくるので あった。
 今日で今回の課題は仕上げることになっていたのから、午後も絵画教室は続けられることになっていた。昼の休憩にはいり、生徒は館内や近くで食事をとるためにでていった。朝子は最後に教室をでながら、いまごろ夫はひとりでチャーハンを作っているのだろうと思った。
 この公民館は絵画のほかに、コーラス、ヨガ、文学といった教室もあったから併設の食堂は混んでいた。庭を見ながらスパゲティを食べている朝子のそばに、少しいいかしらと、セーターにスラックス姿の貞子が坐った。すでに食事はすんでいるらしく、貞子は珈琲だけ注文した。
 彼女は、思うように画が描けないといった。朝子が、わたしもよ、というと、先生も? でも、先生の画は素敵だわと貞子は目を据えた。深い湖のような魅力的な目をしていると朝子は思った。
 「みんな、黒いヴァイオリンなんておかしいというの、わたくしも、最初から黒いヴァイオリンを描こうとしたんじゃないんです。ヴァイオリンの光沢ある褐色をじっと見ていたら、だんだん黒に見えてきて……もう黒以外は考えられなくなったんですわ」
 朝子は貞子の話を聞いて納得がいった。彼女はしっかりと制作をしてきた。彼女の画には、描いている最中のこころの運動があるのだ。おおげさにいうなら、これまで生きてきた人生を彼女は一個のヴァイオリンにぶつけているのだ。その結果、黒いヴァイオリンでなければならないのだろう。
 「先生、おひとり?」
 「いいえ、息子が東京にいるわ。いまはわたしと主人のふたり暮らし」
 「わたくしは、いまのところひとり。夫は海洋学が専門なので半年は海の上かアメリカなの。娘がふたり、ひとりは結婚して、もうひとりは大学院生。このあいだ恋人をつれてきたの。わたくしの好みの男で、好きになりそうで困ったわ」
 笑った貞子の顔も個性的だった。
 「おひとりのときが多いんですね」
 「でも、犬といっしょよ」
 「犬と?」
 「オスのマルチーズだけれど去勢したから、オスでもメスでもないの……しじゅう、うるさく騒いでいる。いまもわたくしがいないので部屋中うろうろして探しているでしょう」
 「可愛がってるのね」
 「画を描くときは置いてくるけど、買物のときはリュックサックにいれて背負い、自転車に乗るんですよ。散歩や、ちょっとした遠出でもそうして連れてあるいています」
 「犬より、猫、それも豹のようなシャム猫があなたには似合いそうね」
 「だめよ、似合いすぎて男が逃げていく……」
 といって笑った貞子の笑顔は、想像もつかない真っ黒いヴァイオリンを描くような底知れない謎が奥ふかくにしまわれているようで、朝子は興味をもった。しかし、深くかかわろうという気持はなかった。貞子の過去も覗きたい気もするが、ようやく手に入れた画を描く生活を乱されたくなかった。
 午後、それぞれ画ができると生徒は自由に帰った。朝子は、途中生協で食事の材料を買ったあと家へもどった。

 夫は竹とんぼを作っていた。四、五本あった。それを一本一本、加減しながら飛ばしてみせて、亮太が喜んだものだよな、と幼いころの息子を思い出しているふうだった。朝の息子の電話があまりにも素っ気なかったので、夫の気持はつい昔に還ったのかもしれなかった。
 しかし、また、夫は真顔で、息子の歳を聞いたあとで、
 「そうか、もう二十六か。あいつにも身を固めるように考えてやらなくてはならないな」
といった。
 「そんなこと、あなたが心配しなくても、今の子はひとりでできますよ」


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