犬が欲しい

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犬が欲しい (4) 

 妻と夫との間で、しばしば意見は異なったが、一致しているのは若いときより歳をとってからのほうが、人生が難しいということだった。人生の経験も、身についた知恵も、役立って生き易くなると思っていた若いころの考えは、かんたんに覆された。
 「そうか、お前はいつからそう思うようになった…」
 「亮太が大学を出たころだったと思うわ」
 「画を描きだしたのもそのころだろう」
 「人間って、すごい思い違いをしているものね。亮太が小さいときは早く大きくなればいいと思っていたのに…」
 「病気しないかとか成績はどうかとか、子どもが一人前になるとそんな心配や苦労がなくなったが…。お前は、画という目的ができて、いいよ」
 夫のいうとおりだと朝子は思った。もし自分に画を描く目的がなかったら、何をしていただろう。友だちに夫にたいする不満をいいながら、旅行や食べ歩きなど、できる範囲での贅沢をしていただろうか。
 目的をもてば目的に近付くための苦労、たとえば画の場合でいうなら、キャンバスに思うように対象が表現できないという苦しみはある。だが、その苦しみは、子育てや家庭における女の仕事のまったくなくなってしまったあとの虚しい生き方よりははるかにましだ。
 夫はどうなのだろう。人生のほとんどを支配していた勤めという仕事をおえた、夫に何がのこるか。犬を飼いたいというのも、竹とんぼを作るのも、もう一度、過去へもどりたいという気持ちだろうか。過去には手応えがあったのだろう。
 しかし、小説家になるなら別だが、人は過去にのみ耽けては生きられないだろう。先のことも考えなくてはならない。朝子が画を始めたのは、やり残した仕事の続きだ。彼にも、やり残したものはないだろうか。
 夕食をすましたあと、夫は、竹とんぼを作っているうちに、幼いころ仔猫を箱にいれて小川に流したことを思いだしたといった。
 「どうして?その仔猫、あなたに何か悪さしたの?」
 「そうだな…」
 夫はふたたび子供時代、ふるさとで友だちと遊んだことを蘇らせているようだった。
 「いきがかり上そうになったんだが、今ごろになって、あの猫は木か何かにひっかかって、無事に陸へ上がったどうか心配になったんだよ」
 「見届けなかったのね」
 「小川の流れにのったのをみて途中で帰った。猫は帰ろうとするおれをはじめて見た。それまで一度もおれの顔を見たことがない猫がだよ。その目が思い出されて胸が痛くなった。けれど、そういう目に、ついこのあいだも会っている。覚醒剤を隠しもっていた少年を捕らえたとき、彼は、置きざりにされた箱の中の仔猫と同じ悲しげな目で、おれをじっと見ていた」
 「切ない話ね」
 「そのとき、女の子たちも捕まった。五人いて、泣いたり喚いたりしたが、あれは芝居だ。だから女の子には何とも感じなかった、可哀そうだとも悲しいとも。彼女らは、痩せたくて覚醒剤を使ったというが、あながち嘘をついてるふうでもない」
 ここまで話したあと朝子に「少し飲みたいね」と夫はいった。
 番茶で割った焼酎と酒盗の小鉢をだすと、彼はうれしそうに箸の先でつまんだ酒盗を口にいれてから焼酎をのんだ。
 夫はまた言葉をつづけた。
 「忘れがたい眼差しがあるものだが、みんな小川を流れていった箱の中の仔猫のように哀れで悲しい目なんだ。こっちを見て、何かを訴えながら遠ざかっていく。竹とんぼを作っていたら、それぞれの港で捕まえた容疑者の目まで思い出されてね。おれは捕まえるだけでその後の彼らがどうなったか判らない」
 「小川に流した仔猫の目が、あなたにはこれまでの象徴になってるのね」
 「そうなんだろうな。しかし、事件というものはテレビドラマのように、全部見届けられるものじゃない。これまでにかかわった容疑者の闇を、おれはかかえてやがて署を去ることになるのだろう…」


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