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鳩山由紀夫さんの話

 7月19日函館国際ホテルで、民主党函館支部主催のセミナーがあり、民主党党首の一人である鳩山由紀夫氏が「未来への責任」というタイトルで講演会をした。
 政治家の話というのはつまらなく、私は殆ど聴きにいったことはない。だが、テレビはすぐ取り上げたりするのは、時局は政治家だけが語れるものとマスコミは考えているのだろう。たとえば、加藤幹事長がそのまま続投になるとか、梶山官房長官が居座るとかの話となると、テレビも新聞も飛んできて、記事にしたり放映したりする。冷静に考えると、これらの報道は、実もない花もない、つまらぬ、くだらぬものでしかない。政界の駆引きや闇の地図をミイハー的に報道しているようなものだ。そんなことで、政治家の講演は役立つとは思えない。個人の言葉がないからだ。
 今回も行くべきか、行かざるべきか迷ったが、鳩山さんとは顔見知りだし、敬意を表して出掛けることにした。もっとも、話の内容は期待していなかった。
 それが、最初の一言から、私は初めて襟を正して聴いた。彼は自分の言葉で先ず、子どもの頃から好きだった蝶の話をした。大学生の彼は蝶採集に、当時まだ高校生であった弟を連れて北海道へ来たといった。北海道は蝶の宝庫だからという。私も十代の頃、母にねだって蝶採集の道具一式を買って貰ったことを思い出した。戦争中であった。五稜郭公園と今の見晴公園の二つが義足の私でも蝶採集が出来る場所であった。そしてそこで捕った蝶の標本箱を五つか六つ作った。蝶は美しくて、タモに蝶がはいると、世界の宝物を捕ったような興奮を覚えたものだが、現在どちらの公園へいっても蝶を見かけることは殆どない。
 鳩山さんが北海道で蝶を採集したというのは、大雪山の近くだろうと思うが、足の不自由な私はまだそこへは一度もいったことはない。しかし今は観光地になってしまって蝶はいないかもしれない。
 さらに鳩山さんの蝶の思い出として、子どもの頃から行きたいと思っていた、日本でもう一つの蝶の宝庫大山へ、少し前、彼の弟と二人でいったときのことを話した。そこも観光地になっていて道は舗装され、山の頂上まで車でいくことが出来た。それはそれで素晴らしかったが、肝心の蝶はいなかったといった。そう簡単に目につかなくなってしまったのだろう。
 こうして彼は蝶を採っていた思い出話から、今の子どもたちに、どんな自然がのこされているのか、また、どんな希望があるのかという話にうつり、今の子どもたちの置かれている不本意さについて喋り、今回のいたましい、そして恐ろしい神戸の事件、私(鳩山さん)の女房は須磨区出身だからとても人ごととは思えず、胸を痛めているといった。
 政治家から私は初めて切々とした思いをこめて、今の少年たちにどんな希望があるのか、まるで精巧な製品でも作るような輪切りの教育しか受けられない子どもたちが哀れだ、と聴かされたとき、この人の「愛の政治」の原点が何かわかったのであった。
 それは人間を「あるがまま」の姿で受けいれようということであった。ややもすれば指導者は「あるべき」姿がある筈だとして画一的に教育する。女は女としての「あるべき」姿、男は男としての「あるべき」姿、この「あるべき」姿とは、いかにも恰好のよい誰からも賛成されそうな錯覚を与えるが、これは「愛の政治」ではない。「愛の政治」とは「あるがまま」の姿を受けいれることで、憲法の精神と同じである。最初に「義務」あるのではない。最初に「人権」があるのである。人間として「私」の姿を「あるがまま」に認めてほしい。そして「あるべき」姿とはそれは個々人の問題なのである。
 一人の人間を「あるがまま」に受けいれるのが「愛の政治」であり、人間としての尊厳はここから始まるのである。人生「いかに生きるか」は、人間としての尊厳が認められてはじめて、個々のその魂のなかに生じる問題なのである。鳩山由紀夫氏の「愛の政治」とはそういうことであった。今回の彼の講演でそれが判っただけで、私にとっては大変な収穫であった。
 (1997年8月、タウン誌「街」No.420)

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