娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


函館での四日間

 函館に行ってきた。
 JR函館駅イカすホールで開催されていたタウン誌「街」の新春企画展を見ること、FMいるかの山形さんの番組にゲストとして出演すること、同人誌「文邪」の合評会と「800字の会」に出席することが目的だった。タウン誌「街」の展示会は父が亡くなってから二回目である。駅という場所柄、大変多くの方が足を運んで下さったようで嬉しく思っている。函館が一番華やかだった頃の大門、「街」を彩った女性たちが今回の企画のテーマだった。女性たちのいきいきとした姿が十分伝わってくる写真展示を見ながら、こんなにたくさんの写真が過去のタウン誌の誌面に載っていたのかと、私は今頃驚いていた。
 カメラマンに支払うお金がないときは、父自らがカメラを持って撮影したという話を聞き、ある人に「お父さんの女性の好みがわかるね」と言われた。昭和四十年代の頃を思い出すと、資金が苦しいときは父ひとりで編集発行の仕事をこなしていた。小学生だった私は当時の父の苦労など、全く知らなかった。懐かしい写真を眺めながら、この時代の人たちは、みんな目が輝いていて美しいと思ったのと同時に、義足の足を引きずりながら、広告をとりに歩いていた父の姿をぼんやりと思い出していた。会場で女性たちの写真を見ていた誰かが、「元祖美少女図鑑ですね」と話していた。なるほど……と妙に納得しながら、父の永年の仕事にあらためて感心した一日だった。
 次の日、FMいるかの山形さんの番組「暮らしつづれおり」の人ネットワークにゲストとして呼んでいただいた。今回のタウン誌の展示会の宣伝もすることができた。この番組には、生前父もよく出させていただいたようで、親子で並んで出るのも良かったなーなんて、思いながら話をしてきた。山形さんが読んで下さった父の文章(タウン誌「街」発行400号記念の北海道新聞の記事)を、黙って聴きながら、胸が熱くなり、小説を書くこともタウン誌を発行することも、どちらも真剣に向き合ってきた父の姿に感動したのだった。
 放送が終わって、外に出ると雪が音もなく静かに降っていた。今年の函館は例年になく雪が多く、道路の両脇に雪の山が積まれていた。FMいるかから二十間坂を電停に向って下って行きながら、父が好きだった函館の坂はどこだったのだろう、そして母がよく言っていた子どもの頃、竹すべりをしていた坂はどこだったのだろうと、考えていた。私は西部地区で暮らしたことがないので全く坂の名前はわからず、坂の上から眺める函館の美しさを知ったのも、両親が亡くなってからのことだった。
 三日目、最後の目的だった「文邪の会」と「800字の会」に参加させてもらった。どちらも父が主宰していた同人誌のグループである。「800字の会」は以前、違う名称の文章教室で、「景」という同人誌を発行していた。父が生きていた時は、その日に生徒さんに課題をだして、二時間以内に800字の文章を書いてもらうのだ。詳しくはわからないが、父亡き後もそのスタイルは続いている。ただ課題は、その日集まった人全員が好きな言葉をメモ紙に書き、一枚誰かが引いてテーマが決定する。それを二時間で書く。私も初めて挑戦してみたが、予想していない言葉が出され、何か書けといわれても、頭が真っ白になってしまった。やはり、文章を書くということは訓練だとつくづく思い知らされた。800字の会の皆さんが配られた原稿用紙にすぐ向い、文字を書いていく様子を、私はただ黙って見ていた。父は生徒さんたちが書いている二時間、何を考え、何をしていたのだろうか。
 原稿用紙二枚に文字は一応並んだが推敲する時間もなく、私はなにを書きたかったのか全くわからないまま、二時間が過ぎてしまった。最後に、来年は父の七回忌なので、父のことを800字の文章にしてもらう事を皆さんにお願いした。
 私は父と母が亡くなってから、両親のことをずっと文章にしたいと思ってきた。しかし、気持だけはどんどん膨らんでいくが、いざ書こうとすると何処から手をつけていいか、わからなくなってしまう。両親に死なれて、父と母が私にとって大きな存在だった、ということを改めて自覚したのだ。姿がなくても、もう話ができなくても、父と母を心の中でいつまでも感じていたかったから、文章にしたいと強く思うようになった。そんな思いから父と母をモデルに、私小説を昨年初めて書いた。原稿用紙48枚、タイトルは「父の肩車」。タウン誌「街」の編集スタッフで「文邪の会」の運営もしているYさんとKさんに勧められ、「文邪」第9号に文章を載せた。合評会というものも経験した。たくさんの方に批評していただき、気づいていなかった自分自身の気持が見えてきたのだ。それがわかったとき、ふしぎと気持が明るくなった。書いたことだけに満足せず、もう一度推敲して書き直すことを合評会の後決めたのだ。いつも文章教室の生徒さんに話していた「書くことは再び生きること、今まで素通りしていた自分の内面に近づくこと……」という父の言葉を思い出した。

早いもので、今年ももう一年の十二分の一が過ぎようとしている。函館でせっかくいい刺激を受けてきたのだから、この気持を今年はぜひ継続したいものだ。
父のように、毎晩、ホットミルクとチョコレートを側において、「父の肩車」をもう一度書き直してみよう。



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