娘のつぶやき |
トップページ ◆『天使の微笑み』
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今年の暑い夏も終わろうとしていた九月、札幌大学のエクセレント講座「井上ひさしの作文教室」が開催された。 北海道新聞で一般募集二十名、受講料無料という言葉にひかれて応募してしまった。なかなか返事がこない。たった二十名だから駄目だったのだ、と諦めていた時、受講の案内が届いた。思わず嬉しくて夫の携帯にメールを送った。そう言えば、父も「景の会」という文章教室をひらいていた。私も一度くらい顔を出してみたかった。 「井上ひさしの作文教室」第一日目。一般募集二十名の他に聴講生、札幌大学の大学生など私が考えているよりはるかに多くの人が受講していた。私は前日からそわそわしていた。ノート、筆記用具、辞書など持ち物を用意し、服装も気になりあれこれと考えていた。大学に行くのだから若々しい恰好の方が良いか、それとも井上先生の講義だからきちんとした服の方が良いかなど考え、準備するのも楽しかった。結局、いつも通りの綿のシャツとジーンズで参加することにした。少し早めに大学に着いた私は、ロビーの椅子に腰をかけ受講する人たちの様子を眺めていた。年齢は私より上の人が多く若干女性の方が目立っていた。しかし、その中に高校生の男子二人が制服姿で参加していたのが印象的だった。 九月中旬なのにまだ大学の庭から蝉の声が聞こえてきた。午後二時、いつもなら眠くなる時間だが井上先生のお話はおもしろく、どんどん引き込まれていった。まわりの人たちもいきいきとした目で先生を見、熱心にメモをとっていた。 一日目の終わりに先生から課題が出された。テーマは「私の宝物」。四百字以内、原稿用紙一枚で次の日の提出だった。 夜、私は家の用事を済ませ、十時過ぎから机に向った。私が今使っている机は函館の実家にあった食卓テーブルだった。父と母が食事のときにいつも向かい合っていたテーブル。母が亡くなった後、父は居間でも書きものをするようになり、このテーブルを仕事机として使っていた。父と母の思い出がいっぱい詰まったテーブルを私も仕事机として使っている。 井上先生から出された四百字以内という少ない文字数に悩み、苦しんでいた。うまく書けず、あれこれと書き直すうちに午前二時、三時と時計の針は進んでいった。 昔、時任町に住んでいた頃、夜中、目を覚ますと父は明け方近くまで机に向って仕事をしていた。厳しい顔をしていたので声をかけることもできず、音をたてないようにして自分の部屋に戻った。 四百字に苦しんだ私も何とか清書して出来上がった時には、外はすっかり明るくなっていた。そのまま布団には入らず、米を研ぎ、夫と息子の弁当を作り始めた。 提出して二日後、井上先生が赤字を入れて下さった原稿用紙が、手元に戻ってきた。赤字はたくさん入っていた。最後に文章のことではなく、「字がとてもきれいで、こんなに読みやすい原稿は珍しいです……」と書いてあった。嬉しいが内容を褒めてくださった訳ではないので、複雑な心境だった。 グループごとに分かれ、自分の書いた文章を人前で発表した。声を出して読むと、良いところ、おかしなところ、前後のつながりが悪いところなどがよくわかった。熱く指導してくださった井上先生の姿に、ふと、父の姿を重ねていた。 三日間の作文教室は貴重な体験で刺激的な時間だった。やはり、父にいつも言われていたようにもっと本を読まなければならないと痛感した。 父が生きているとき、私にこんなことを言った。「家のことを書いてみないか。お母さんが書くとただのグチになってしまうが、お前が書くときっといいものができると思うよ……」。その時はそんな言葉に耳をかさなかったが、今は違う。父と母のことを書きたいと思っている。 書くことは再び生きること、今まで素通りしてきた自分の内面にもう一度近づくこと、といつも文章教室の生徒さんに話していた父の言葉を思い出した。私も父のようにコツコツと書いてみよう、とりあえず来年の十月二十七日を目標に。 今ごろ、父と母があの世で笑っているかもしれない。父と母のことを文章にすることで、二人に対しての精一杯の感謝の気持を表現したいのだ。 井上先生の作文教室は、私にとってひとつの目標をあたえてくれた大切な時間となった。(「文邪」第7号 2007年11月 ) 井上ひさし先生が癌で亡くなった(2010年4月9日)。昨年、肺癌であることを公表し治療に専念されることをテレビのニュースで知った。まさか、こんなに早く亡くなるとは思わなかった。また、ひとり昭和の作家がこの世を去った。 三年前、幸運にも井上先生の作文教室に参加させていただいた私は、あの日のことを思い出していた。電子辞書を持ってきている受講生がたくさんいる中で、私の机の前で立ち止まった先生は、大野晋の国語辞典を持っていた私に「これはいい辞書ですよ」と言って、紙の辞書の良さを語っておられた。そして、早く辞書を引くコツを私たちの前で教えてくださったのだ。生成りの綿シャツにジーンズ姿で七十代には見えない、若々しくお元気なお姿だったのに。 2005年夏に小学館から「全国文学館ガイド」が出版された。その中で、井上先生は仙台文学館の館長として「文学館の住人たち」というタイトルでエッセイを書いている。そして、私の父も函館市文学館の紹介で「精神のリレーとしての文学館」というエッセイを発表している。この本が完成して二ヶ月後、父は癌でこの世を去った。そして、井上先生も癌でこの世を去った。作文教室での三日間を思い出し、三年前に書いた文章を載せてみた。 井上先生のご冥福をお祈りいたします。 |