娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


十年

 私が初めて「文邪」を手にしたのは十年前の十二月、父が亡くなって二か月後だった。Kさんから「先生の最後の文章が載っています」と言われ手渡された。父が多くの同人誌に関わっていたことは知っていたが、父の書いたものを読むことはなかった。そのころはいろんな後始末に追われ、気持ちに余裕がなかった。
 函館から札幌に帰る列車のなかで「文邪」5号を開いた。入院直前に書いたという父が生きていたときの最後の文章は、原稿用紙3枚ほどの短いエッセイだった。「駅にて」というタイトルで、入院していた私の見舞いにきた父が、函館に戻る列車を札幌駅で待っている間の孫とのほんの三十分の様子を書いたものだった。その文字の中から私は、父の至福の時間を感じ胸がいっぱいになった。
 十年前の三月、私は子宮筋腫の手術で二週間入院していた。父は私の見舞いに札幌まで来ると言いだした。文章教室の生徒さんと一緒だから心配ないと言う。しかし、生徒さんたちが帰った後、ひとりでもう一泊することを知った私は見舞いに来なくていいと何度も電話した。このころの父は癌が骨に転移し痛み止めの錠剤を服用していた。しかし、父は列車の指定席もとり、ホテルも予約していた。札幌駅に着いた父はタクシーに乗り、私が入院していた大谷地の産婦人科にやってきた。「列車の中でお前の好きな大沼だんごを買った」と言い、同室の人の分も用意してあった。そのあと詰所に挨拶にいくといって、看護師長さんに会いにいった。こんな父の姿を見たのは初めてだった。帰り際に、「お母さんが生きていたら、お前にどんなことをしてあげるだろうか」とずっと考えていたと言ったのだ。癌の痛みに毎晩ひとりで耐えている父が、娘のことをこんなに考えていてくれたのかと思うと私は父に申し訳ないと思った。
 次の日、私に代わって父の面倒を大学の春休みで帰省していた長男に頼んだ。父が泊まっていた中島公園にあるホテルに迎えにいき、そこの最上階のレストランで二人は食事をして、息子はおじいちゃんとタクシーで札幌駅に向かった。その間、荷物を持ち、義足のおじいちゃんの手をとり、ゆっくり歩き、列車の中まで見送ってくれたのだ。初めてひとりで大役を果たした息子が安堵した様子で、「無事、おじいちゃんは列車に乗りました」と入院していた私に連絡してきた。その後、体調が万全でなかった私は、父と息子がどんな話をし、過ごしたのかを聞かないうちに、平成十七年十月二十七日、父は母のもとに旅立った。

 十年経って今年の夏、父の「駅にて」を読み返した。それは私が手術のために一か月入院することになったからだ。昨年の秋に左膝の半月板を損傷し、医者からは手術を勧められたが、決心がつかず、しばらくリハビリで様子をみることにした。膝に水が溜まり歩くのも辛くなったが、半年間リハビリし筋肉をつけていくことで少し痛みも和らぎ、膝の水も抜けていった。しかし、階段の昇り降りはできないし、走ることもできない。日々の生活は制約されることが多かった。それでもいいと思い始めていたときに、息子が休暇で東京から帰省してきた。十年前父の面倒をみてくれた息子も三十歳になり、私に意見するようになっていた。私の膝の状態を聞き、「どうして手術しないのか」と言ってきた。完治することもないリハビリにお金と時間を使うのはもったいないという。手術してちゃんと歩けるようにするためにリハビリすべきだと言われ、私は妙に納得したのだった。
 ゴールデンウィーク明けに病院にいき、「先生、手術お願いします」というと医者も突然の私の発言に「急にどうした?」と言ってきた。「『老いては子に従え』ですね」というと、先生は笑いながら、看護師に指示し早速手術の日程が組まれていった。
 手術は左膝内側半月板の縫合だった。麻酔から目が覚めると、左足が重く全く動かない。大腿部から足首まで固定具で覆われ身動きできないのだ。車椅子で初めてトイレに移動した。腕には点滴の針がささったままだ。左足を両手で持ち上げないと便器に座ることもできない。やっとの思いで用を足しベッドに戻ると、痛み止めがきれてきたのか足が痛い。注射をうってもらったが、また何時間か経つと痛みが襲ってくる。そのたびに父のことを思い出した。所詮痛みは痛んでいる本人しか判らない。父の癌が骨に転移したとき、腰が痛いと言っていた。私も何度かぎっくり腰になり腰痛を経験しているが、父の痛みはそんなものではなかった。骨が崩れていく痛みと言われたが、私には判らなかった。
 縫合手術をした私の痛みは膝蓋骨の奥でドクドクと波をうつ痛みで、左足だけ外してしまいたいと思うほどだった。しかし、時間が経つと膝の痛みは確実に回復に向かっていくものだった。痛みの間隔はだんだんひろがっていった。しかし、父の癌の痛みは回復するものではなかった。
 入院中、父の夢を見た。車椅子でトイレに行く私の前に、車椅子の父がいた。私はこの十年間にあったことを父に話したくて追いかけた。長い廊下は迷路のようで、やっと出口に出ると父の姿はもうなかった。父は紺地の絽の着物を着ていた。十年前と同じように私のことを心配してくれた父が、あの世から見舞いにきてくれたのかもしれないと思った。
 父が最期を過ごしたホスピスでの四か月間は、痛みをコントロールすることができて、穏やかな時間を過ごすこともできた。七月のある日、父は入院中のホスピスから着物を着て車椅子で文章教室の講義に出かけたのだった。その時に撮った十年前の写真が、私の記憶の片隅にあったのだろうか。
 夢の中の父はこの時の姿だったかもしれない。話ができなかった残念さだけが私のなかにあった。

私にとって長くもあり短くもあった十年だった。父が亡くなったから、父に心を寄せることもできたし、この十年間に父が書いたものにたくさん目を通すこともできた。
 今、私は元気だったころの父の姿を思い出しながら、リハビリに励んでいる。十年目の夏は片足だった父の苦労が少しだけわかったような気がする。
(2015年「文邪」10号)



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