娘のつぶやき

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◇娘のつぶやき


父との写真

昭和59年5月
父と鎌倉にて


父からの贈りもの

 父は孫に読ませたい本やおもしろい本があると、よく宅配便で送ってきてくれた。
 今から、七、八年前だったろうか。ミヒャエル・エンデの『モモ』が何冊かの本の中に交じって箱の中に入っていた。当時、私の二人の息子は中学生と小学生でバスケットボールをやっていて、練習と試合の毎日だった。
 しばらくして、電話をかけてきた父は、「『モモ』、読んでみたか…」と言った。私が「子どもたちはバスケットの練習で忙しいから、読む時間なんてないよ」と言うと、父は驚いたような声で、孫にではなく私に読ませるために『モモ』を送ったのだ、と言った。
 今、思えば両親から電話がかかってくると私は口癖のように「忙しい」とか「時間がない」と言っていたかもしれない。仕事と家事と、おまけに下の息子が所属するミニバスケットボール少年団で役員もやっていたため週四日は練習に付き合い、さらに土、日曜日は試合に同行するという日々を送っていた。一日中忙しく動きまわっている、そんな私の状況を知っていて、父は『モモ』を娘に読ませたいと思い送ってきてくれたのに、とうとう父が生きている間に読むことはなかった。
 父は物書きで、母は中学校の国語の教師だった。私が子どもの頃は、家にあふれるくらいの本が並び、学校で紹介される本はなんでも揃っていた。父と母はいつも本を読み、机に向かって仕事をしていることが多く、そんな二人の姿に圧倒され、逆に私は全く本を読まない子どもだった。中学・高校時代で一番苦手な教科は国語だった。大人になっても、読書の習慣が身についていなかった私が本を読みたいと思いはじめたのは、父と母が癌で亡くなってからのことだ。
 函館の実家を処分し、父と母が何よりも大切にしていた本を札幌の我が家に運んできた。
本棚に並べた父の本をパラパラとめくると、何度も読み返した様子や鉛筆で線を引き、メモをしている箇所をみつけると、もう少し早く本に興味を示し、読んでいたら父といろんな話ができたかもしれないと思った。そして、つい最近まで父が『モモ』を送ってきてくれた事すら忘れていた。ハードカバーの背表紙が少し日焼けした本の頁をめくると、「時間がない」、「忙しい」と口癖の現代人に対してのメッセージが隠されている児童文学だと知って驚いた。父が孫ではなく、娘の私に読ませたいという思いを、その時は全く理解していなかった事に「すまない」という気持ちでいっぱいになった。
 明け方、めずらしく父の夢を見た。父が好きでよく足を運んでいた函館にある伽藍堂という喫茶店でコーヒーを飲み、入り口に立っている私に父がゆっくりと微笑んでいる姿だった。
机に向かって仕事をしている時と違いとても穏やかでやさしい顔をしていた。
 ふと、癌でホスピスに入院していた父が亡くなる一週間前の事を思い出した。私は母が癌で亡くなった後、ひとりで入院生活を送っていた父の所に時々様子を見に函館へ列車で通っていた。
 この日、看護師さんに連れられ入浴を終えた父が移動寝台で病室に戻ってきた。私は夕方の列車で札幌に戻るため、とても急いでいた。いつもより入浴時間が遅れたので、看護師さんに身体をふいてもらい着替えていた父に、「列車の時間がないから、もう行くよ。また、来週来るからね」と言って病室を出ようとしていた。土、日曜以外に平日、私が函館に顔を出すときは日帰りのため、担当の看護師さんは私が何時の列車に乗るか、よく事情を知っていてくれた。
 「娘さん、帰りますよ。手をふってあげてね」と看護師さんが言っても、父は私の方をふり向こうとしなかった。いつもなら、「気をつけて帰れ」と必ず言って手をふってくれる父が黙ったままだった。その時も列車の発車まで三十分しかなかったため、私は忙しそうにバタバタと病室を後にして駅に向かった。
 これが父との最後の別れになった。「また来週来るからね」と言ったのに、その来週は父の葬儀になってしまった。
 「忙しい」、「時間がない」といつも言って、せわしくしている娘をじっと見守って、心配してくれた父の思いをかみ締め、今、私は『モモ』を読んでいる。父が生きている間に読まなかった事を詫びながら…。
 父が亡くなって三年、我が家の本棚には父からの贈りものがたくさん並んでいる。
(さっぽろ市民文芸、2008年10月)


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