社会時評「四千字の世界」 |
トップページ 社会時評 四千字の世界[目次] ○印の評論はこちらで 読むことができます 四千字の世界 ○卑屈さの研究 ・原型としての物語 ・私怨・組織・革命 ・地下室からの「私」 ・発達から成熟へ ・昭和の終焉 ・私の文学空間 ・「事故」の解読 ・昭和五年の不幸 ・目黒中二の殺人が 意味するもの ・平成元年フットボール ・犯罪大国日本 ・血の日曜日 ・経済は世界の終末に 向かって繁栄する ○小説の運命 ・続 小説の運命 ・「雪国」をめぐって ・殺人犯の母親 ・脳死と死体 ・埴谷さんと ナスターシャ ・深夜の妄想 ・湾岸戦争とPKO法案 ・道化の唄 ・私の自衛隊論 ・支配は姿を変えて 登場している ・証人の証人 ・最初に障害(異変) ありき ・男の文化、女の文化 ・梅毒とエイズ ○私は「平和憲法」を守る ・コメの文化 ・文学は差別を書くこと ・三面記事 ・死体と死後の世界 |
小説の運命 ピエル・ルイスに言わせると、近代人の発明した快楽は一つしかなく、あとはすべてギリシャ文明を作ったギリシャ人に負っているという。その近代人の発明した快楽というのは煙草のことで、ギリシャ人は喫煙の楽しみ方や、それによる時間のすごし方を知らなかったという。しかし、批評家のアルベエル・ティボオデは、小説家ともあろうピエル・ルイスは、もう一つ大事な快楽の発明を忘れていると指摘する。小説を読む楽しみで、これも近代人のもので、ギリシャ人は知らなかったという。 煙草と小説と、この二つの言葉を並べていくと、両者の間に共通性があることに気がつく。それはどちらも現代では人気がないということだ。煙草は発ガン性があるとか、健康によろしくないとか、嫌煙権とかの攻撃をうけて隅の方へ追いやられ、小説もまた同じ運命にあるのか、現代人は小説を読む快楽を捨てて、この貴重な財産の扱い方を忘れている。 何故こうなったのか。唄を忘れたカナリヤではないが、現代人が小説を読む楽しみを放棄したのは、今は小説の時代ではないということだろう。小説というのは、小説家一人のものではない。世間と読者の三位一体から成り立ち、いまは時代の転換期で、現代人には小説を読む知的心理的余裕がないのである。小説が好んで読まれるためには、読者が利口で、人間的に成熟していなくてはならない。時代の変化によって、人間はいまは退行的で、そういうときは小説もいいものは出来ないし、かりに予言的ないい小説があっても人はそれに気付かない。 いわば現代はニュウスの時代である。新聞だけの時は、こうもニュウスは一般化していなかったが、テレヴィによって、ニュウスはいまやドラマ化したのである。テレヴィのスイッチをいれる。画面一杯にベルリンの壁が出て、それがいま壊されている。壁が崩れ、東西のドイツ人が互いに抱き合う。伝説によると、古代ギリシャでは、アイスキュロスの芝居『ペルシア人』の上演を見たアテネの若者たちは「祖国!祖国!」と叫んで盾を叩いて歩いたというが、ベルリンの壁を破った東西のドイツ国民も、また、「祖国!祖国!」といったかもしれない。さらに画面は一ぺんして、ルウマニアが映る。独裁国家が亡びる。そして、遂にチャウシエスク夫妻の無惨な処刑の姿がクロオズアップされる。この処刑のシインは、われわれの魂を浄化しないが、そういう意味ではギリシャ悲劇に似通ったものは何一つないが、これはシェイクスピアの芝居『マクベス』の運命に繋がっている。まさにマクベス同様、チャウシエスク夫妻は、人間にある筈のすべての聖的なものを踏みにじって人間性を破壊し、自分の神からも見捨てられ、自分の信念までも滅ぼされるという末路を辿った政治的悲劇で、東欧に住んでいなくても、十分に観客として、このニュウスはわれわれをひきつける。 一九八二年、井上陽水は、『傘がない』という唄のなかで、いま自分に大事なのは、政治でも、ニュウスでもない、雨のなかを君を訪ねようとして傘のないことだ唄って、脱・政治の姿を見せたが、最近またがらりと変わり、筑紫哲也の23時のニュウスに流れる彼の唄は、いろんなニュウスを折りたたんだものである。そして彼自身も、最近自分にとって面白いのは、ニュウスであるといった。 『傘がない』は脱・政治で、愛の唄だが、十年たつと、恋の経緯と感情の分析の面白さを楽しんでいる気持ちの余裕がなくなり、政治やその先駆けとしてのニュウスが前面に出てきて、もう現代人には直接的な言葉しか通じなくなっている。パフォオマンスということがしきりに協調されたり、詩人が詩を書くよりも、書いた詩の朗唱をしたり、また文字のない無文学社会の生活が顧みられたりするのも、視点を変えれば退行現象ともいえる。小説を楽しむ心、いわばそれは一人の作者によって語られてきたドラマを集団で聞いてきた喜びをさらに一歩突き進んだ姿で、孤独な部屋で作者が書いたものを、これまた孤独な部屋で読者が一人で、その書かれたドラマをよむことで、そこには人に語っても理解されない、かけがえのない自己があり、その自己が小説を読むことで生きかえるのである。そんなふうにして、バルザックが、スタンダアルが、ドストエフスキーが読まれてきたが、小説の休止時代になると、なにより人間は自分自身になることを恐れて避ける。いかにもアイデンティティーを探しているようだが、現代人は何よりも自分自身になりたがらず、大衆化したいのである。こういう時代を私は退行現象と呼んでいるのだが、その特色は、絵画よりも写真を愛し、写真を信じるというところに出てくる。写真は同じものが無数に出来、そういう意味では現代はコピイの時代で、そしてまた現代人は集団で同じドラマを見るとか、聴きたいとかいう傾向も顕著である。 しかしまた、こうもいえるだろう。バルザックやスタンダアルやドストエフスキーでは、二十世紀のいきついた自己の苦悩を再び新しく照射することがむずかしいとも。バルザックやスタンダアルに匹敵する小説の天才がいまだ出現していないことが、小説の休止を招いているのかもしれない。 小説の大道は何といっても、アムウル(恋)である。ティボオデに言わせると、小説は婦人の部屋で生まれたという。婦人の部屋で、ロマンス語で物語が作られ、その物語の中心は恋愛の経緯とその感情の分析であった。それを女性たちはやがてむさぼり読むようになった。現代の愛とは何か。ここで注目すべきはアメリカの男女の生き方である。ほんの数年前までは、アメリカでは離婚が多かった。これはキリスト教以後の、キリスト教の愛の精神を守った結果である。離婚が多いのは、夫婦の間に、性をおき、その性が中心に考えられていたからで、性生活のない夫婦が一緒に家庭を営むことの否定である。 ここに結婚して十年経つ夫婦がいると仮定しよう。そしてこの夫婦に子どもが二人いるとして、この夫婦の危機というのは、どちらかが、外に性関係のある男か女が出来たときで、そういうときは、キリスト教の愛に照らして、当然別れるべきであるという倫理ができ上がり、かくして離婚に踏みきったケエスが多い。しかし、もう一度冷静に考えてみると、夫婦とか、家庭とかいうものは、男と女の性がそれほど重要かということだ。夫婦とか家庭とかは、もっと別なものからも成り立っている筈である。子どもがいれば、当然その子どもが一人前になるまで、夫婦は子どもを中心に育てる義務がある。そのためには暖かい家庭が必要だ。また夫婦というのは、男と女が一緒に暮らすというだけでなく、それは社会的契約で、そこにはもろもろの目に見えない約束事がある。そういう目に見えない繋がりで夫婦はまた成り立っている訳で、性がすべてではない。 しかし、だからといって夫婦の間で、私は性が二義的なものとはいっていない。夫婦の間よりも、性は男と女の間で、じつに第一義的なにである。それだけに、夫婦の間では、その性はすぐ退屈し、つまらないものになり、外に目がいく。外では性の誘惑はいくらでも待っている。それを我慢しろというのがキリスト教の夫婦に課せられた倫理である。しかし現代は我慢することが殆ど不可能だ。それくらい人間は長生し、家庭生活が電化し、体力がかなりの年齢まで若々しくたもたれている。我慢できないから、浮気という形で外の男、もしくは女と性関係を結び、これが夫婦という概念への冒涜だとして、離婚する。それでアメリカでは離婚が多くなったが、最近その離婚が減ったのは、夫婦や家庭は、性だけで成り立っているのではなく、他の諸々の要素で成り立っているということが判ってきたからである。そして夫婦や家庭から、性を中心の考え方を追いだし、互いに性生活に飽きがきたら、それぞれ外で相手をみつければよく、そうした外での性関係に、妻も夫も互いに口を出さない、不問にするという、そういう倫理が出来つつあるからである。 アップダイクが『カプルズ』という小説のなかで、書こうとしたのも、そういう愛の問題だが、それはしかしまだ十分に書かれてはいない。さらに深く掘り下げるのはこれからだろう。 いままではあらゆる作家は、人妻や夫が外に性的関係者を作ると、浮気とか、不倫とかいう型で小説にしてきた。これは十九世紀的発想である。十九世紀ではそうであったが、現代はまるで違うかもしれないのであり、発想の転換がなければ、現代人の愛も、苦悩も作家には見えないかもしれない。 時代は常に男と女の関係で始まる。これからの作家は、小説とは何か、小説を書く才能とは何かといった十九世紀的発想を捨てることだ。そして、新たに、小説を書くことで作家はいかなる才能を働かせることが出来るかという新しい視点がいる。そういう視点がなければ、作家は時代を正確に見ることも、その時代見え隠れしている現代人の愛の芽生えも見据えることはできない。 いまは小説の休止時代だが、新しい読者はやがて二十一世紀には、どんな恋愛小説が出現するか待っているだろう。 (1990.3)
|