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時間よ、止まれ

 現代を生きるとはどういうことか。最近私はそのむずかしさに戸惑っている。こんなに物が豊かで、便利で、生活の視点からみれば何かもそろい、どこにも否をとなえるものはないのだが、それでいて、憩いはどこにもなく、心のやすらぎもない。何か分からぬが人生において、もっとも根源的なものが不足していると思っている。
 愛とか情とか義理とかがないと言っているのではない。家庭内暴力や暴走族を、私は困った存在とは思わぬ。現代を生きることのむずかしさの象徴と思っている。彼らの心は、亀裂しているのだ。同じ亀裂は私にもある。なぜ心に亀裂が生じたか。ここが問題なのだ。「本来あり得た自分に、仮の自分が脱帽する」という言葉があるが、現代人はだれもがそうではないのか。
 だれもが、住宅ローン、車の月賦、進学ローンの借金や、暇のない出世コースを選びたくないのだが、そうしなければ現代に適応できない。こうしていや応なしに外側の合理的生活に合わせて生きている。気がついてみると、自分が望んだ人生も生活もどこにもない。本来あり得た生活とは、自分の特殊性を活(い)かすことだろう。あるいは、自分自身になることだろう。それには絶えず、こころを支えている、もっと奥深い、心層への旅がいる。いわゆる私が名づけている「内界への旅」である。
 しかし現代はその「内界への旅」がむずかしい。そんなことをしていると現代に乗り遅れるという不安のために、今日もまたわれわれは情報を集め、科学万能の合理的生活を追いかける。ゲーテではないが、「時間よ、止まれ」といいたい。
      (朝の食卓・北海道新聞/昭和57年頃)

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