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好きと数奇


 プルーストは、自分の作品の中で、対象に向かって告げたときの愛の言葉が、どんな運命を持つかということで、実に巧みな比喩を使っている。言葉を小石にたとえて、それはちょうど、深淵に小石を投げるようなものだという。深淵だから、その言葉がどう受けとめられるかわからない。だから愛する者はたちまち不安になり、嫉妬に苦しむというのだ。
 どっちにせよ、それが受けいられようが、受けいられまいが、愛の言葉を吐いた以上、そこには予測もできない運命が待っている。従って「失われし時を求めて」はまた嫉妬の小説ともいえる。ヨーロッパの文学は恋愛が王座を占めるから愛の言葉は豊富だが、日本はどうも、男でも女でも、対象に向かっていう言葉は、好きという一言につきる。
 これは、あなたが好きだというほかに、チョコレートが好きとか、果物が好きとも使われて、プルーストが言うようなシビアな運命を持っていないような気もするが、実はそうではない。人間が一途になるのは、人でも物でも好きになったときで、好きこそ物の上手なれ、とも使われるが、この「好き」とは裏側に、大変な運命を持っているのだ。
 そういうことで、私に示唆を与えたのは、司馬遼太郎・林屋辰三郎両氏の対談集「歴史の夜咄(ばなし)」で好きになるとは「歯止めがきかなくなって不幸な運命を招く」という「数奇な運命」が裏側にかくされているという。それはやはりどうなるかも知れぬ深淵に向かって突進することである。けれどこの「好き」の裏側のこうしたあやうい運命にわれわれはどれだけ敏感だろう。
(北海道新聞全道版 朝の食卓 昭和57年)


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