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コラムあれこれ

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私はモーゼに従う


 イスラエルの民は多民族からなる。そのイスラエルの民に向かって、奴隷であった彼らをエジプトから脱出させ、新しい約束の地へ連れて来たとき、モーゼは言った。「決して偶像を崇拝してはならない、偶像を捨てよ」
 偶像崇拝はそれぞれの民族の利益を優先することだから、必ず争いが起こる。大事なのは平和である。平和は利益を優先させては存在しない。これはモーゼの思想だ。
 日本国憲法の九条は、そのモーゼの思想の普遍化で、国際間の紛争に決して国権の発動による武力を使わないというのは、国益を先行させないということだ。偶像を捨てて平和裏に事を運ぶことを言っているのだ。
 今わが国の憲法改正論者のなかには、その理由として、現憲法は現実に合わないというのがある。そのターゲットは、九条の戦争放棄だ。これが現実に合わないというのは、アジアを取ってみても紛争が起き、巻きこまれる危険があるからだという。そういう危険は絶えずある。だからモーゼはイスラエルの民に向かって、偶像を捨てよ、と言ったのだ。国の経済が不安になると、必ず国益が先行し、一触即発の幻想をつくるのである。それが今までどれだけの不幸を人類にもたらして来たか。第一次世界大戦、第二次世界大戦、この二つの戦争を見ても、フランスの詩人ポール・ヴァレリイではないが、それぞれ国益を優先させたために、各国の頭脳は武器生産にすべてを傾け、そしてまたそれぞれの国家の優秀な政治家たちは、大量殺人に知性のすべてを注ぎ、結果として文明を破壊して来たのである。どこに利があったのか。武力は、勝った国も負けた国もその精神を荒廃させる。
 日本国憲法九条のどこに、現実に合わない瑕(きず)があるのか私には分からない。九条は理想を言っているのではない。守らなければならぬ人類共通の誓いを言っているのだ。私は国益より平和を優先させる。モーゼの言う偶像を捨てよとは、国益より平和が大事ということで、たった一人になっても私は集団的自衛権の台頭を阻止し、日本国憲法九条を死守する。
(北海道新聞 立待岬 平成13年5月9日)


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