随筆あれこれ

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太陽の死


 「作家三島由紀夫は今日、楯の会の会員四名をしたがえて、市ヶ谷自衛隊に侵入、三島由紀夫と隊員一人は、割腹自殺、残りの隊員三名はただちに逮捕される」というニュースを、私は車の中できいた。11月25日の午後三時頃で家へかえる途中であった。
 私の耳はたしかに、そう放送するアナウンサーの声をきいたのだった。しかるに私はすぐに信じられず、何かの間違いだと思った。そんな馬鹿なことはないと思った。
 しかしそれでいて、ものの十秒もたたないうちに、あるいは、という予感のようなものが、私の頭の中に閃光のように走ると、そのニュースはもはや動かしがたいものになった。
 遂に彼は決行したのだと私は悟った。涙が出てきた。車から降りて、どんなふうに私は家へもどったか覚えてはいなかった。
 苦しい悲しい思いであった。なにもしたくない、からだからすべての力が抜けていくばかりであった。
 生前私は三島由紀夫氏に会える機会が何度かあった。しかるに私はそれを私の方から避けてきた。一番最初に私を三島氏に紹介してくれようとしたは作家の埴谷雄高さんであった。その時私はまだ大学生で、国文学に席をおきながら、仏蘭西文学にひかれていた。「仮装」というはじめて書いた小説を私は埴谷さんにみてもらおうと思って持っていった。昭和25年頃の夏であった。
 その頃埴谷さんはからだ具合があまりおもわしくなく、寝たり起きたりしておられた。私の作品を手にとると頁をパラパラとめくって「一週間たったらおいでなさい。読んでおきます」といわれた。
 埴谷さんは当時既に一部の人たちから高く評価されていた。私も何篇か小説や評論を読んだが、いずれも難解で、よく読みこなせなかったが、不思議にも、私の最初の小説はこの人に読んでもらいたいという気持が強かった。つまり私は埴谷さんの人柄にひかれていたのであった。一週間たって、再び吉祥寺のお宅にうかがうと、埴谷さんはこういわれた。
「君はいくつ?」
当時私は二十歳であった。
「二十歳か。若いんだね。二十歳でこれだけ書ければ言うことはない。この中には小説家がいる。あとは君の努力しだいだ。誰か君に相応しい作家を紹介してあげよう。君は誰が好き」
「三島さんです」
「じゃ、彼のところに紹介状かいてあげよう。三島くんとはそれほど親しくはないが、しかし、知っているから……」
だが、このとき、私はためらった。本心は三島氏に会いたかったが、それでいて私の心のどこかに、彼と会うことに躊躇するものがあった。私は彼の才能に憧れながら又恐れてもいたのであった。昭和25年といえば、太宰治の文学がもてはやされ、「近代文学」の連中がはばをきかせていた。「近代文学」の埴谷さんは別にして私はどちらにも影響されなかった。その頃私が専ら読んでいた文学は仏蘭西文学であり、古代ギリシャの文学であった。
日本では三島由紀夫氏の作品であった。まだ三島由紀夫氏はそれほど有名ではなかったが、秘かに私は彼はやがて第一等の作家になるだろうと思っていた。しかも私は氏の作品、なかんずくギリシャの詩人エウリピテスの戯曲を飜案した「獅子」という小説を熱愛し、嫉妬さえ感じていたのであった。その三島氏に、埴谷さんが紹介してくれるといったとき、私は心が躍るくらい嬉しかったが、一瞬ためらったあとでおことわりした。三島氏は才人である。彼のケタはずれの才能の前では、私の才能なぞ、あっという間に消えてなくならないとも限るまい。つまり氏の眩い才能に照らされて。私は自分自身を見失うことを恐れたのであった。
 この一瞬のためらいが、三島氏と会うことを、もう少しさきにのばさせたのであり、この数分の心の葛藤をありのまま埴谷さんに話すと、埴谷さんはその時はじめて声を出して笑った。
 「君は神経がこまかいんだね。それに、なかなかの自信家なんだな……」
 かりにこのとき埴谷さんの紹介状をもらって、三島氏をたずねていたら、私の運命もかわっていたかもしれない。二度目は、なくなった尾崎士郎さんが私の三島崇拝熱を知って、紹介してくれようとしたが、このときも私はためらったあとでことわった。三度目は新潮社に「新潮」の編集をなさっていた菅原氏をたずねたときであった。私は三島氏に憧れており尊敬もしてるというと、今三島さんが来ておりますよ、といわれた。菅原氏になんとかお願いすれば、会わせてもらえないわけでもなかった。しかし私はまだどんな立派な仕事もしていないので、三島氏に会うことはいやであった。それにその頃、私はたびたび「新潮」に書くチャンスをつくっていただきながら、一度も、当の菅原氏の満足のいく小説がかけずにいた。そんな状態で私は三島氏に会うのはいやであった。恥ずかしい気持であった。
 だが、もう、私には三島氏に会うことはできぬ。なくなられた人間にどうして会うことができよう。いずれ満足のゆく仕事が出来たなら、三島氏を訪ねようとしていた。二十年前氏に会えるチャンスをためらって逸してしまったそれが報いであろうか……
 今も私は三島氏の熱愛者である。もっとも戦後まもなく、私は函館という北海道の由緒ある港町で、誰に教えられるともなく、一人で、レイモン・ラデゲィを読み、スタンダールを読み、古代ギリシャの詩劇を読んでいた。又私が熟読玩味したのは仏蘭西の不遇な作家リラダンであった。他日私は、三島文学を知ることによって、そこに私の趣味と共通している世界をみつけ、それ以来私は氏の文学のとりこになったが、偶然にも、三島氏が歩いていた世界を、又私も歩いていたのであった。
 これからも私は三島文学の崇拝者であり、熱愛者であることは変わらない。私は三島氏の作品を通して、じつに多くのことを学んだ。彼はまたすぐれた小説の読者でもあり、すぐれた批評家でもあった。三島氏は私に西欧の文学の読み方と面白さを教えた。又埋もれていた日本の古い文学に、彼は光をあてて、それを甦らせた。三島氏は私にとって太陽であった。その太陽は、もういない。海と溶け合う太陽の美しさに、永遠を見たのは、ランボオだが、今私は、太陽がまったく没した暗い海原をみている。そこには時間もなければ、いかなる記憶もない。妙に暗い空間の広がりだけがあるだけで、それが死の感覚というものであろうか。
 三島氏の死を、犯罪者呼ばわりする人に私は腹が立つ。三島文学をまったく解さないテレビの司会者のいい気な三島批判にも私は腹が立つ。まことしやかに「三島君は『金閣寺』以後もう作家ではない。又よい作品もない」といった小説家もいたが、こんなのが小説家面しているなんてあきれたもんだ。『豊饒の海』こそ氏の最高の傑作であり、これは氏の「失われし時を求めて」であり、私はプルーストとともに三島氏こそ二十世紀文学の最高峰だと思っている。  もう私は三島氏に会えない。夢は夢のままで終わった。これからの私の仕事は、太陽が没した暗い海原に、もう一度、太陽を創造することである。三島文学という太陽を!
                            (1970・12・9)
〈月刊はこだて 1971年1月号 NO101〉


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