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随筆あれこれ

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復初の精神


 あまり見なれないコトバだと思いますが、朱子学にはよく出てくるコトバです。復初の上に、復性がつき、復性復初と四文字で使用されるらしいですが、性というのは、人間らしい、人間としての生き方のことで、復性というのは、従って、人間としての恥ない、本来の人間の姿にかえろうということになります。初というのは、事の始めということですから、復初とは事の始めにもどろうということです。つまり、人間として、もっとも大事な事の始めにもどろうということです。
 朱子学でよく使われていたから、宋の時代の孔子にもどろう、孔子の『論語』を学ぼうということになります。
 いまの日本に大事なもの、この復初だと私は思います。あまり大事なので、それに精神をつけて、私は「復初の精神」と呼んでおります。それなら、どこへ復初せよ、というのかといいますと、昭和二十年八月十五日にもどる必要があると私は考えております。その時、まだ生まれていない人もいるでしょうが、その人も勉強して、八月十五日にもどる必要がある。あのとき日本人は、本当に真剣に日本人として、これからの日本はどうあるべきか、さらに美しい日本はどうして亡びたのか、それこそ絶えず考えた筈です。
 私の専門の文学でいうなら、八月十五日までは沈黙の自由はあったが、日本人は自分の思ったこと、考えていることを言えなかった。そういうところには文学はない。それならどこにあるのか。これはいい考えだからみんな従えという意見や、満場一致の思想や制度を打ち破ったところ、別なコトバでいうなら、個人の解放、個人がそれぞれ思ったことがいえるところにしか文学は成り立たないのです。さらに別なコトバでいうなら、既成概念や既成事実を打ち破ったところにです。こうして桑原武夫の『第二芸術』や大岡昇平の『俘虜記』や埴谷雄高の『死霊』が生まれました。
 ところが、五十年経ったらどうなったか。司馬遼太郎のコトバをかりると、かつてないほど日本人は悪くなった。外国までいって札ビラで外国人の頬を叩いて、建物や土地を買いあさって、世界の鼻つまみものになり下がったのです。八月十五日に本当の日本、今度こそ美しい日本を創ろうとして誓ったのに、醜悪な人間になり下がった。とくにそのうちでも日本の政治はひどい。つねに既成事実しか考えない。日本の政治家は、いずれも頭が悪いのか、それとも狡猾なのか、なぜ物事は存在せねばならないのかを考えずに、じつに安易な存在のための存在、つまり既成事実しか考えない。そのために、ただひたすら税金のムダ遣いをし、不要なものを造り、不要な既得権にのった特殊法人をつくって莫大な借金をしてきました。このままでいくと、日本は亡びます。物欲のみを追い、また政府はそれを扇動もしてきて、たしかに物の面では豊かになったが、精神の荒廃をまねき、この五十年間でわれわれは自ら考える精神を失ったのです。いま、われわれに必要なものは、もう一度八月十五日にもどることで、あの焼け野原で、われわれは何を為すべきかと考えたことを具に思い出すことです。そして、ここから出発し直さねばならず、それを私は「復初の精神」と呼んでいるのです。
(1996年10月 タウン誌「街」NO.410)


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