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随筆あれこれ

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証人の証人


 三島由紀夫、吉本隆明、井上光晴の三人は年齢的に一つか二つの違いで、同年の作家評論家とみてよいだろう。そして三人には共通なものがある。それは三人とも戦場へいった経験のないことである。また思想的な弾圧の体験もない。それでたまたま冗談に私は、この三人の文学の方向を的確に解明しようとするなら、その鍵は大岡昇平が握っているのではないかと言ったことがある。
 ここはいささか人の意表をつこうという気どりもないではないが、吉本隆明は別にして、というのは彼についてよく知っていないからこの際省くとして、三島由紀夫、井上光晴の二人には、そんなふうにいって間違いではないような気がするのである。
 谷川雁が井上光晴の追悼文(『プロレタリアの葬列の末尾』)のなかで、大変注目すべきことをいっている。井上光晴の読者は、井上光晴は坑内作業の経験を充分に持った作家と思っているが、それは違うということをいっているのである。
 彼は崎戸炭坑の少年坑夫だったが、坑内に這入ったことがなく、坑外仕操だというのである。坑外仕操というのは、坑口から選炭場にかけてもっとも軽い労働者のことである。当時の左翼運動者や、労働幹部は殆どこの坑外仕操であったらしい。
 さらに、谷川雁の話は続く。谷川雁がある坑内の作業員に井上光晴の小説をかしたことがある。その作業員はその小説を読んだあと、「坑外仕操じゃなかろうかとおもうとったら、やっぱり物の見方も文章もそうじゃな」といって井上光晴の小説を返してよこしたというのである。
 谷川は追悼文のなかで、例の坑夫が読んだ小説の題名も内容も書いていない。また、その坑夫の重要な発言、「物の見方も文章もそうじゃな」について何の解説もしていない。だから谷川が追悼文のなかでいいたかったことと、私がその追悼文から受けたことでは差異もあるだろう。そのことは不問にして、私は、物の見方も文章も坑外仕操のものであったという坑内作業の坑夫の言葉に視点を据えて、井上光晴という作家について考えてみたいのである。
 井上光晴が坑外仕操であったということは、炭坑の一番危険な経験者でないということである。炭鉱という世界を二十世紀の歴史という言葉に置き換えると、井上光晴は二十世紀の歴史の証人ではないことになる。彼は証人の証人なのである。そしてそのことは井上光晴に劣等感を与えたと思うのである。
 三島由紀夫は、しきりに、男は原理であるとか、男の行動とかいうが、彼もまた戦場を知らないのである。それが三島由紀夫の劣等感であったろう。
 二十世紀を「政治と戦争」の時代とすれば、三島由紀夫も井上光晴も歴史の証人ではない。二人とも二十世紀の究極に立会っていないからである。二人とも何度もいうが、証人の証人なのである。
 それでは二十世紀の歴史の証人は誰かというと、政治の面では、すぐ頭に浮かんでくるのは『死霊』の作者埴谷雄高である。彼は戦前すでに特高に逮捕され、独房ですごしている。その時の体験が後に『死霊』という作品になって表現された。もっとも、この小説は未だ未完で、現在「第九章」が書き続けられている。
 私はここで埴谷雄高の文学についての考え方を援用して、もう一人の証人大岡昇平を分析しながら、三島由紀夫と井上光晴に迫りたい。
 典型的でわかりやすいことからいえば、二十世紀の歴史の証人について大岡昇平を挙げるのが一番良いだろう。埴谷雄高もいっているように『俘虜記』は大岡における日本人の発見である。そしてドストエフスキイの『死人の家』に通じるものがある。 
 しかし、私が強調したいのは、大岡の「私」である。日本には「私小説」はあっても、世紀に通じる自伝としての「私」はない。そしてこの自伝としての「私」とは、次に挙げる埴谷雄高の文章がじつに明晰に語っている。

 「或る思想のもつ根源的な発想という一つのかた
 ちを思うとき私がつねに思い浮かべるのは、ピラ
 ミッドの高さはどの位かと問われたとき悠容と答
 えたタアレスの答え方である。周知のごとく、そ
 のときタアレスは、ひとの影がその背丈と同じに
 なったときピラミッドが示す影の長さはその高さ
 とまったく等しいと答えたのである。私はこの答
 え方を、それが一つの思想へまで高まらずばやま
 ない見事な発想の型だとつねづね思っている」

 ここで埴谷雄高がいっていることは、世界批判としての文学、天地創造としての文学は、自分と等身大の影から出発できるということである。
 二十世紀全体がピラミッドの高さとすれば、二十世紀全体を批判できるのは、等身大の大岡昇平である。彼が二十世紀の全体像を批判できるのは、歴史が始まって以来といわれる二十世紀の残虐な戦争の証人であり得たからである。彼の「私」は、ピラミッドの高さを計量できたタアレスの影なのである。
 もっとも誰しもタアレスの影をもっている。文学とは自分の等身大の影を書くことだからである。しかし、そこには自ずと限界がある。たとえば、三島由紀夫と井上光晴の影は、大岡昇平の影と同じには考えられない。二十世紀の証人としての大岡は恵まれているのである。彼は二十世紀の究極に立会い、戦争の悪や犯罪性を知り、合せて日本人を発見したのである。彼の「私」がかくも堂々としているのはそこから来ている。彼には自分の見たものを書くだけで、二十世紀全体が批判できるという自負がある。彼の「私」はそういう私なのである。それは世紀の「私」なのである。
 三島由紀夫も井上光晴もそういう「私」は持っていない。二人の「私」は証人の証人としての私なのである。この証人の証人としての「私」が、証人の「私」の位置を得るには どうすればよいか。
 二人の苦悩はここにあったと思う。二人の文学は絶えずこの問題にぶつかっていたと思う。私が三島由紀夫と井上光晴の二人に、一つの共通性を見るのは、こういう仕組みにおいてである。出来上がった作品世界も、その作品の出来栄えもかなり違うのに、二人は世紀を書くことの出来る「私」を持っていないということで共通しているのである。大岡文学が三島由紀夫や井上光晴の文学を解く鍵を握っているというのも、恵まれた大岡の「私」から見ると、三島、井上の苦悩している「私」がよく判るからである。
 そうはいっても文学とは非情なもので、文学が文学として成立つには、証人の証人ではどうにもならない。証人の証人ではどうにもならない。証人の証人が世紀の証人になるにはどうすればよいか。ここには埴谷、大岡にはない、証人の証人としての三島、井上の苦労があったと思う。
 井上光晴は坑外仕操で坑内の危険の立会者ではなかった。その危険を知るには想像力しかない。ここで私は一つの比喩を使って説明してみたい。
 最初の世紀の証人はヨハネである。その点イエスは遅れてきた証人である。ヨハネを埴谷、大岡とすれば、三島、井上の両者はイエスということになる。
 従って、三島由紀夫、井上光晴の虚構の世界には殉教の匂いが強い。さて私の論旨もこのへんからむずかしくなる。ここへきて、少し息切れしながら書いている。
 イエスは自分の信仰や思想を語って、最後は十字架に磔になる。神の道を説く者は行動家と等しいところがあるから、その生涯には一貫性がある。三島の言葉をかりるとわかり易い生き様で、イエスはつねに十字架上の姿として記憶される。そこへいくと、作家とは、宦官になった司馬遷のように生き恥じ晒して記録を執る者のことである。そうした生き恥じを晒しながら、証人の証人は、世紀の証人になっていかねばならない。しかもイエスのように行動の殉教者ではなく、虚構のなかで想像力を駆使し、想像力の殉教者になり、世紀の「私」の文学作品を凌駕する文学作品を書かねばならないのである。 
 これは大変なことだろう。それができたかどうか。それができなかったから、三島由紀夫は行動に出たのだろうか。それがむずかしかったから、井上光晴も文学伝習所という一種の文学運動の実践者になったのだろうか。三島も井上も、埴谷や大岡が持ち得た「私」を持っていなかった。世紀の「私」を持ち得た埴谷、大岡はいつまでも思考の空間にとどまっていられたのに、三島、井上の両者は絶えず動き廻っていた。
 しかし、バルザックの小説、『知られざる傑作』のように厚塗りした底に、世紀の傑作がすでに描かれていたように、私たち以後の文学愛好者は、三島や井上の作品のなかに、埴谷、大岡両者の文学作品を凌駕した虚構としての世紀の「私」の文学作品をみつけるかもしれない。文学は百年単位で考えるべきものだからである。
 一つだけ、証人の証人として苦慮した井上光晴の作品を挙げておこう。『黒い森林』である。舞台はモスクワ。当時のソ連の知識人たちが登場し、ただのひとりの日本人も登場しない。ロシアを日本人のものにした小説である。三島由紀夫には『サド侯爵夫人』という戯曲がある。舞台は革命前夜のパリ。登場人物はすべてフランス人で、日本人はひとりもいない。フランスの女を活写しながら、三島由紀夫は自分のドラマを展開している。
(北方文芸 1992年12月号)


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