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随筆あれこれ

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倉庫のある街


 冷たい風のなかで、スケッチしていたが、そのうち小雪まじりの風にかわり、途中でやめて、倉庫の中のビヤホールに這入った。午後の二時頃なので、空いていた。それでも旅行者風の若い男女が何組か、そこかしこのテーブルに坐って、ビールを呑んでいた。みな、防寒着を着ていた。足もとに大きなバッグもあったから、いましがた函館に着いたのか、それとも、午後の便で、この町を去るのか、そんな恰好の若者たちであった。
 私は熱い珈琲を貰った。黒い皮ジャンを着ていたけれど、身体が冷えていたのか、珈琲が喉をとおって、胃のなかに落ちていくと、何か身体の芯から、暖かく甦る感じであった。冬の港の風はかなり気温が低い。三十分ほど七財橋に立ってスケッチしていたが、あれが限度であった。ビヤホールのなかは暖かく、だんだん身体もあたたまってきた。私は窓の真向かいの荒れている港内の波を見ていた。小さく三角形の尖った鋭い波が一面に立っていた。
 ときどき私は、倉庫のたたずまいを見にここへくるが、昔は、大変にぎやかであった。港は船で溢れていたし、倉庫の扉はあけっぱなしで、次々と、はしけからあげた荷をかついだはっぴ姿の人足が、せわしげに、倉庫のなかを出たり入ったりして、活気のある場所であった。
 ギリシャ語に、ペリペティーヤという言葉がある。一度栄えた場所は、栄えたことが手かせ、足かせとなって再び同じ型で栄えることがむずかしいという意味らしい。
 函館の港も倉庫も永いことさびれていたがそれが甦った。しかし、昔のようにではない。もう港には大きな船ははいらないし、倉庫には、外からの荷物の受注もない。倉庫を中心にした周辺は、歴史として甦ったのである。

 倉庫の一つはビヤホールになった。夏はビールを呑む人で満員の盛況ぶり。その隣りの倉庫はショッピング街に。いろんな店がある。オランダのチョコレートを売っている店、世界のワインがある店、客船の応接セットがそっくりある店、喫茶店もある。そして三つ目の倉庫は観客二、三百人のホールになっている。倉庫のアンテックな内装を実に巧みに生かしたホールで、いつか私は、ここで、ギリシャ悲劇をやってみたいと思っている。なかんずく、ソボクレスの『アンチゴネー』を。法を選ぶか、妹として、兄の屍を葬って法に背き生埋になるか、その二律背反のなかで、敢然として法を犯して兄の屍を葬ったアンチゴネーの悲劇をやってみたい。そういう劇にぴったりなホールである。

タウン誌「街」1990年1月号 (No329) 私の好きな場所より


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